「さらにステップアップしていきたい」。齊藤聖七が語るプロ1年目までの道のりと、これから
2023年7月30日、清水エスパルスは齊藤聖七がSC相模原へ育成型期限付き移籍することを発表した。今季、流通経済大学からユース時代に所属した“古巣”に加入したが、シーズン序盤の怪我の影響もあり、出場時間を伸ばせない中での決断となった。プロ1年目、移籍を決断するまでの日々をどう過ごしていたのか。そして、齊藤にとって清水エスパルスというクラブはどのような存在なのか。
なお、本インタビュー取材は移籍が発表される3日前の7月27日に行われた。清水エスパルス、SC相模原、両クラブの承諾を得て公開する。
高い壁を感じたプロデビュー戦
――プロサッカー選手としてのキャリアを歩み始めた今、その立場で過ごす毎日はいかがですか?
「やっぱりアマチュアとプロの差を感じているというか、それはピッチ面もそうですけど、ピッチ外でも私生活の部分での立ち振る舞いも、本当にプロフェッショナルな選手が多いので、そういうことを知れたという面で、この半年は凄く充実していたなと思います」
――プロになったことを実感するのって、サインを書くことだったりはしないですか?(笑)
「ああ、そうかもしれないですね。サインを書いたり、自分と話すだけで喜んでくれたり、そういうことがあると『ああ、“そっち側”の人間になったんだな』って(笑)。それこそ自分にも6歳や7歳の頃の記憶はあるので、あの時自分が感じていた感情を思い出しながら、その逆側の立場になっているんだなと。ファンの方と関わって、それを感じました」
――サインは結構練習しました?
「一応ユースの頃や大学の頃から書く場面が何回かあったので、サインは持ってはいました(笑)」
――さすがです(笑)。ピッチ面で言うと、プロデビュー戦のルヴァンカップでは川崎フロンターレに0-6で敗れました。この試合はどういう一戦でしたか?
「あれはもう忘れることのない試合です。凄く屈辱的でした。あの試合も結構な観客の数が入っていて、ああいう中でなかなかあれだけの大差で負けることはないと思うんですけど、それが自分のデビュー戦に当たってしまいましたし、それに川崎フロンターレという王者を前に、メチャメチャ分厚くて、高い壁を感じましたね。あの試合のマッチアップが佐々木旭くんだったんですけど、大学の1つ上の先輩で特に仲が良かったので、3年間一緒にやって身近だった方が、あの試合で凄く離れた存在に感じたんです。『ああ、こんなにも違うんだな』と。
でも、あの試合のおかげで自分の中のギアが上がったというか、逆にああやって現実を見られたデビュー戦だったのは、良い意味でいいスタートが切れたのかなと思います。自分の人生はこれまでも挫折が多かったので、自分らしいなという感じはありました」
――ここから這い上がるには、最高のスタートだと。
「本当にそうですね。そこがモノサシというか、『あそこのレベルに達しないと、J1ではやれないんだな』と、あの試合で思いました」
――ルヴァンカップの湘南ベルマーレ戦では、アイスタのピッチにも立ちました。それこそユースの時にも試合をしたことはあると思いますが、改めてプロの試合であのピッチを経験できたことはいかがでしたか?
「ユースの頃とは全然違いました。もちろんあの頃もサポーターの方は来てくださっていましたけど、単純に人の量が違いますし、ゴール裏から応援されるのも初めてだったので、ピッチに入って、あの一面がオレンジで埋まっている景色を見た瞬間に『ああ、これこれ!』って(笑)。ゴール裏を見上げた時は1人で昂りましたし、凄く嬉しかったですね」
――もともと自分がシーズン前に思い描いていた7月頃の自分と、実際に今の立ち位置にいる自分はギャップがありますか?
「開幕からスタメンでもベンチでも試合に出るつもりではいたので、だいぶギャップはありますね」
――オン・ザ・ピッチの部分で、試合に出ている選手と一番差を感じているのはどういうところですか?
「正直に言うと、技術やサッカーIQ、戦術眼は劣っていないと思っています。そこに自信はあって、チームでも上位を争うレベルだと感じているんですけど、現状ではプロのピッチに慣れていないのかなって。試合に出ている選手たちは、どの試合でも、どういう場面でも、自分のプレーができるメンタリティが凄いなと思います。自分も練習試合では良いプレーができるんですけど、ああやってJ2で秋田戦に出てみた時に、『いいことしよう。でも、ミスはしたくないな』みたいな、ちょっと受け身になってしまう部分があって、『やっぱり試合に慣れていかないといけないんだな』とは感じました」
キャプテンとして優勝したクラブユース選手権
――そもそもエスパルスに入ったのはユースの時でした。改めてですが、その経緯を教えていただけますか?
「中学生の時はFCパルピターレという、神奈川県リーグの2部でも中位ぐらいの街クラブでプレーしていて、自分がサッカーで上に行けるとは思っていなかったので、受験して地元の高校に進もうと考えていたんですけど、自分たちの代が運よく関東大会に初めて出ることになったんですね。その時にちょうど1回戦の相手がFC東京U-15深川で、自分としては『おお、Jの下部組織とやれるんだ!』という高揚感もあって、その試合に懸けていたんです。そこでのパフォーマンスが良くて、FC東京から練習参加のオファーがあったんですけど、他にも4つくらいのクラブから話が来たことで、そこから自分の意識が変わりました。
それでいろいろ練習参加していくうちに、エスパルスからも練習参加のオファーがあったんです。そこはパルピターレの代表の栗田さん(栗田大輔・明治大学サッカー部監督)の関わりもあったみたいで、自分は人と人との繋がりに恵まれているんですけど、正直エスパルスには『経験として練習に行ってみよう』という感じでした。でも、エスパルスは凄く雰囲気が良くて、寮に泊まらせてもらったんですけど、先輩とゴハンを食べたり、お風呂に入ったりした時に、『ああ、こんなに優しいんだ』って。その前に行ったチームでは怖い先輩たちもいて、『これが普通なんだろうな』と思っていたのに、エスパルスは居心地がよすぎたので、『もうここだな』と思いましたね。それで2日目の練習試合で活躍して、ユースの監督の平岡(宏章)さんとコーチの加藤(慎一郎)さんにその場で『来てくれないか?』と直々に言われたので、もうその場で『行きます!』って(笑)。それまで何チームかで迷っていたのに、独断で『行きます』って言っちゃったぐらい、エスパルスというクラブに一目惚れしたんです」
――3年生のクラブユース選手権で勝ち獲った日本一は、今から振り返るとキャリアの中でどういう位置を占めていますか?
「日本一になることなんてそうそうないですからね。ましてや自分たちが日本一になれるとも思っていなかったですし、それまでの自分のサッカーキャリアを考えても、そんなビジョンなんて1つも見えていなかったですから。そう考えたら、あの日本一は相当自分の中で大きかったです」
――しかも、キャプテンとして日本一になってしまうと。
「まあ、キャプテンキャラじゃなかったので(笑)、平岡さんから『キャプテンをやってほしい』と言われた時は驚きましたけど、同期の選手たちに“クセ”がなかった分、すんなり引き受けられたというか、仲が良かったですし、みんなも『聖七でしょ』みたいな感じだったので、それなら全然やりますよと。自分だけがまとめていたわけではなくて、本当にキャプテンとしては何もしていないんですよ」
――そんなことはないでしょう(笑)
「いや、本当です。みんながちゃんと責任感を持ってやってくれていたので、自分も背負いすぎずにやれたというか、監物(拓歩)も(梅田)透吾もそうですし、佐野陸人(SC相模原)も栗田詩音(ブリオベッカ浦安)も、そういう3年生たちが支えてくれました。自分はみんなが凄く好きだったので、『コイツらと優勝したい』という想いが凄く強かったですし、『みんなのために頑張ろう』と思えていたので、ああやって結果が出て、凄く嬉しかったですね」
――キャプテンとして、日本一の優勝カップを掲げることだって、ほとんどの人が人生の中でできないことですからね。
「あのカップを持った時のことは、今でもはっきりと覚えていて、凄く重みを感じたというか、やっぱりみんなで優勝を掴み取った感覚があって、嬉しかったですね」
――当時ユースからトップに上がれなかったことは、こうやってここに戻ってきた今から振り返ると、どういう経験でしたか?
「それも1つのターニングポイントでした。あそこで上がれないと言われた時は凄く悔しかったですし、現実を突き付けられた感じでしたね。かなりショックを受けたんですけど、今から思えば『あそこで上がらなくて良かったな』と凄く思います。そう思えるぐらいに大学の4年間が充実していたので、大学進学を決断したあの時の自分は、良い判断をしたなと。実はちょっと選択を間違えそうにもなったんです(笑)。いったん『大学には行かない』とクラブには伝えていましたから」
――え、そうなんですね。
「家庭の事情もあって『大学には行きません』と伝えて、海外に行くのも1つの選択肢でしたし、J2やJ3のクラブに行くことも視野に入れていました」
――そこから最終的に流通経済大学への進学を決めたのは、どういう理由からですか?
「流経が熱烈にオファーしてくれたこともありましたし、入学の条件面の部分も良かったので、『それなら大学に行こうかな』という気持ちになったことと、エスパルスが『大学で4年間頑張って、戻ってきてほしい』と言ってくれたので、『ああ、そういう道もあるのか』と思えたんです」
エスパルスに戻ることは一番の目標
――流通経済大学での4年間は、どういう時間でしたか?
「長いようで、短かったので、一瞬で過ぎ去りました。流経を選んだのも『揉まれたいな』と思ったからなので、だいぶ揉まれに揉まれながら(笑)、いろいろな経験をした4年間でした」
――曺貴裁さん(京都サンガF.C.監督)に出会えたことも大きなポイントですよね。
「曺さんに出会って、僕の意識は変わりました。ユースの時もプロを近くで見ていましたけど、その自分の意識では甘かったような感覚もありましたし、曺さんと会って、曺さんのサッカー観や、曺さんの思うプロに対しての意識を知ることができて、2人で話す機会も凄く多かったので、熱く語ってもらいました。自分も神奈川出身で、曺さんのことはよく知っていましたし、あの人の熱い部分もわかっていたので、凄く曺さんの言葉を聞き入れようとする自分がいて、それこそその言葉をメモしていたぐらいだったので、そういうことも自分の成長に繋がったと思います」
――まあ曺さんは人間っぽいというか、面白い人ですよね(笑)
「本当に人間味にあふれていて、ああ見えて凄くおちゃらけている時もありますし、面白い方だと思います(笑)」
――改めてエスパルスからオファーが届いた時の率直な感想と、そこからエスパルスに戻ってくることを決断した想いを教えていただけますか?
「やっぱり大学に進んでも、常にエスパルスに戻ることは一番の目標に掲げていましたし、1年生の頃からずっと兵働さん(兵働昭弘・清水エスパルススカウト)も気にしてくださっていました。でも、大学ではすぐに潰れてしまってもおかしくないような環境がそこにある中で、自分は1年生からコンスタントに試合に関わり続けられたことが凄く大きかったかなと。曺さんと出会ったのは2年生の時で、その時にはリーグ戦で二桁得点もできましたし、それも常に自分の中にエスパルスという存在があったから、自分に矢印を向けながら、周りに流されないように4年間頑張れたんです。だからこそエスパルスからオファーが届いた時には、1つの目標を達成できた感覚でしたけど、嬉しかったというよりは、『ここからか。やっとだな』という感じがありました」
――プロサッカー選手になったからこそ、ここから自分が到達したいところはどういうふうにイメージしていますか?
「もっと試合に出て、周りからの評価を上げたいですし、その先には海外に行きたい気持ちもあります。もともと海外に行くことが夢で、大学の時も自分から望んでクロアチアに短期留学させてもらって、そこで感じたこともあるので、ここからさらにステップアップしていきたいと思います」
――もちろん大変なことも多いでしょうし、楽な道ではないと思うんですけど、やっぱりサッカーを職業にできて良かったなと、この半年ぐらいで実感していますか?
「周りの友達の話を聞いても、好きなことを職業にできるということは本当に多くないと思いますし、小さい頃からひたむきにやってきたサッカーを自分の仕事にできることは凄く幸せなことなので、プロにはなれましたけど、もっと自分に磨きをかけて、サッカーを極めていきたいなと思います」
Photos: ©S-PULSE
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!