元ヴィッセル神戸のDFホージェル、日本への思いや監督哲学を語る
2004年からの2年間、ヴィッセル神戸でプレーしたブラジル人DFホージェル。2008年の現役引退後は監督に転身し、2015年のグレミオを皮切りに、アトレチコ・ミネイロ、パルメイラス、バイーア、フルミネンセ、グレミオなどのビッグクラブを歴任し、4つの州選手権タイトルを獲るなど、国内でも重要な中堅の1人として活躍している。
そんな彼が今、日本のクラブで指揮を執ることを熱望しているという。ホージェルの日本への思い、日本サッカーの分析、そして監督哲学などを聞いた。
「ヴィッセル神戸に行くと決めたのは2003年の年末、グレミオのプロチームで10年めになるところだった。当時28歳で、外国のクラブに挑戦したいと思っていたんだ。日本でプレーしたことのある選手たちから、日本の素晴らしさやJリーグの発展について聞いていたのもあって、そのチャンスが浮上した時には考え直すこともなかったよ」
「1996年にも神戸に行ったんだ。レコパ・スダメリカーナという大会があって、僕はグレミオの一員として、アルゼンチンのインデペンディエンテと対戦した。阪神・淡路大震災の翌年で、当時、市民を元気づけるために、市全体で色々なイベントが促進されていた。その時のことを思い出して、あの街にもう一度行きたいと思った」
「日本人の技術力には驚かされた」
<日本サッカーの長所>
「僕がヴィッセルに行ったのは、クラブの発展を手助けするためだった。当時のヴィッセルはまだJ1の中でも、ハードルを一つひとつ乗り越え、挑戦していく時期だったからね。ただ、僕にとってもハードルがあった。日本のサッカーはスピーディーで、試合は非常にインテンシブ。通訳のガンジー(※白沢敬典氏のニックネーム)に言ったほどだ。『ここではプレーできそうにない。このスピードにはついていけない』ってね。でも、忍耐強く取り組んで、サッカーにも、街や国、文化にも適応し、僕の人生でも素晴らしい時期になったんだ」
「1年目の2004年は、当時のヴィッセル史の中でも上位につけ、特に後期は8位という結果を残せた。僕は本来SBかCBだったんだけど、あの時期は左ウイングとしてプレーし、何ゴールかを決めることもできた(リーグ戦3ゴール、リーグカップ戦1ゴール)」
「ブラジル人が外国に行って、本来より攻撃的な役割を担うことが多いのは、僕らブラジル人の技術的なクオリティ、あの技量を、他の国の選手たちが身につけるのが難しいからだと思う。でも、日本人の基本的な技術力には驚かされた。パス、トラップ、シュート、クロス……それを非常によく身につけている」
「思い出すのは、対戦相手の日本人CBが、僕の背後にいたFWに、50mほどのスルーパスを出そうとした時のこと。僕はあの距離で、あれほど精度の高いパスが来るとは思わず、一瞬注意力を欠いた時に、ボールが背後に通ってしまった。その時、スガ(菅原智)が言ったんだ。『ホージェル、日本人には多分、ブラジル人のような器用さはない。でも、ボールを正確に蹴ることは、僕ら全員が知っている』と。それが僕の感じた日本人の長所だ。技術の基礎ができている。多分、そういう育成をしているんだろう」
<ヴィッセルで経験した多国籍の交流>
「日本でいろいろな国の選手や監督と経験や知識を交換し合えたことは、最も良い収穫の一つだった。ヴィッセルにはブラジルでプレーしたことのあるカズ(三浦知良)やMFのスガ、CBのバウルー(土屋征夫)がいた。同時に、カメルーンのエムボマや、ボランチにはチェコのホルヴィがいた。イワン・ハシェック監督もチェコだ。監督はブラジル人のエメルソン・レオンの時期も、日本人の時期もあった対戦相手にも様々な国の監督や選手たちがいた。それは僕が監督を目指す上で、大きなインパクトのある重要なプロセスになったんだ」
「日本サッカーの構築においてもそうだ。1990年代から2000年代は、そういう外国人たちを通して、違った基盤を持つサッカーを吸収した。そうやって国全体がこの競技の専門知識を得た上で、日本人の監督たちを生かし、日本の文化に基づいた日本のメソッドというのを生み出したんだ。それによって日本は非常に大きく成長した。今では多くの日本人選手たちが世界の主要リーグでプレーしていて、その経験を代表やJリーグに持ち帰り、共有することによっても、確立したメソッドは成熟している。今や日本はサッカーの強国だよ」
「日本のクラブで監督をしたい」
<日本で監督への夢に開眼>
「第2の人生で監督の道を選んだことこそが、ヴィッセルでの経験と直結するんだ。今でも当時の思い出として取ってあるのが、サッカーの戦術を表示するためのクリップボード。チェコや日本の監督が伝えることをしっかり理解するために、次の試合の戦術や何かも含めて、そこに書き写していたんだ。そうするうちに、僕は監督の目線によるサッカーに魅力を感じるようになった。それで、引退後はまず体育大学に行き、2011年からは古巣グレミオでアシスタントコーチをした。そして、2014年にジュベントゥージで初めてプロのサッカー監督となったんだ」
「それから様々なクラブで指揮を執った。経験とは白髪だよ。試合の1分ごとに白髪が1本増えるように(笑)、年を経るごとに違った経験が増していく。僕の考え方もフレキシブルになった。監督哲学はただ一つ、ボールを持って攻撃していたい、ということ。あとはクラブ、選手の特徴、その時の状況と、すべてを考慮しながら、次の1試合のための哲学をもたらすということだ。選手たちの試合の見方や希望もよく聞くんだよ」
<今後の目標>
「日本のクラブで監督をしたいんだ。その理由の一つは、クラブの運営の仕方。J1だけじゃなく、J2、J3のクラブでも、例えば3、4年後に1つ上のレベルで戦うために、きちんとプロジェクトを組んでいる。そして、苦しい時期があっても、クラブが“彼だ”と決めた監督と共に成長したいと考える文化。そこに僕は魅了されるんだ。その街を知り、クラブの文化を知り、そこにいる人々を知り、自分がその環境の一部になったと感じれば感じるほど、より良く自分の力を提供できると思うからね」
「監督としての目標は、いつでも優勝を目指すこと。僕らはサポーターが幸せな気持ちでスタジアムを後にするために頑張っている。そのためには、試合に勝つことだ。いつも選手たちに言うことがある。『僕はチームをオーガナイズしたい。それは、みんなが自分の才能をピッチで発揮し、より良い形で自分のプレーをするためだ。組織によって縛るんじゃなく、解放するために組織するんだ』とね。それをピッチの中で見ることが、監督としての僕のゴールなんだ」
「みんなにありがとう」
<日本へのメッセージ>
「まずは、ヴィッセル神戸のサポーターに親愛を込めて。みんなはいつもクラブを、そしてサッカーを熱烈に愛し、選手たちを支えてくれた。僕は日本でよく電車を使っていたんだ。試合の後にはしょっちゅう、サポーターでいっぱいの電車に乗って家に帰ったものだよ。そんな時、親しみを込めて声をかけてくれたのが楽しい思い出だ」
「1年目、クラブのチームカラーは黒と白で、2年目はクリムゾンレッド。その2つのユニフォームは、今も大事にしまってある。スタジアムを満員にしていたみんなと、いつか再会したいね」
」僕の人生は、日本に住む前と住んだ後に分けられるんだ。それがすべてを要約している。僕は日本サッカーを手助けに行って、その日本のおかげで、人として、プロとして、もっとずっと強くなれた。多くの感動の時を過ごし、1人の人間としてすごく豊かになれた。みんなにありがとう」
Photos: Kiyomi Fujiwara, LUCAS UEBEL/GREMIO FBPA, Bruno Cantini/Atlético Mineiro
Profile
藤原 清美
2001年、リオデジャネイロに拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特にサッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のTV・執筆等で成果を発表している。W杯6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTube『Planeta Kiyomi』も運営中。