ロシアW杯に続きカタールW杯でもGS敗退に終わったドイツ代表。日韓W杯からブラジルW杯までは4大会連続で3位以上の好成績を残していただけに今一度、育成からやり方を見直す必要がある。そこで注目されているのがヘルタ・ベルリンだ。下部組織に力を入れているクラブは現在、年代別代表に招集されている選手数で国内トップを誇る。
そのアカデミーを統括するパブロ・ティアム氏に、ドイツ在住の中野吉之伴さんがインタビューを実施。前編では同氏のキャリア、カタールでのドイツ代表、変化しつつある現代サッカーの傾向についてお届けする。
育成は私が《私》として力を発揮できる場所
――パブロ・ティアムさん、今日はお時間を取っていただきありがとうございます。最初にどのような経緯でヘルタ・ベルリンに来られたのかお話しいただけますか?
「ここでは育成アカデミーのチーフとして仕事をしています。私がヘルタにきて1年半になりますね。以前所属していたボルフスブルクでも同じポストでした。現役時代はケルンやシュツットガルト、バイエルン、ボルフスブルクといった複数のクラブに在籍して計18年間プレーした後、2008年に引退しています。
引退後は育成に関する様々なポストに就きました。ボルフスブルクではセカンドチームの監督も任されていましたし、最後の3年間は育成アカデミー全体を統括していました。現役時代の頃から家族はずっとベルリンで暮らしていました。私がボルフスブルクでプレーしていた時はボルフスブルクとベルリンを電車でよく行き来していましたね。(注:ドイツ版新幹線ICEで1時間ほどの距離)」
――ボルフスブルクからヘルタへの移籍を決めた理由は何だったのでしょうか。
「ベルリンで仕事ができるならそれはいいことだなと思ったんです。ベルリンという巨大な町には大きなポテンシャルを感じていますし、ここで暮らす人たちが持つ多文化さはドイツの他の町にはないものです。もちろんヘルタでの仕事内容がとても刺激的だったということもあって、移籍することを決断しました」
――最初から育成の分野をセカンドキャリアとして目標にしていたんですか?
「いや、そういうわけではないです。1つ自分で思っていたのは《指導者にはならない》ということでした。というのも、選手時代と同じようなリズムでの生活というのは避けたかったんです。毎日グラウンドに来るのではなく、私個人としては構築された生活環境の中で仕事をしたかった。なので、マネージメントのジャンルで仕事をしようというプランを持っていました。でも比較的早い段階で考えが変わって『育成で仕事をしたいな』と思うようになりました」
――心変わりの理由はなぜですか?
「自分が持っているものを最大限、還元することができると感じたんです。ではどうしたらいいのか考えました。私が《私》として力を発揮できる場所はどこなんだろうって。私自身、昔はブンデスリーガ下部の育成でプレーをしていました。トップタレントと呼ばれる選手ではなかったんです。私より才能のある選手がたくさんいましたから。でも、彼らはプロ選手になることができなかった。一方で私はプロ選手として長い時間をブンデスリーガでプレーをすることができたんです。この経験は若い選手に伝えてあげたいなと。……
Profile
中野 吉之伴
1977年生まれ。滞独19年。09年7月にドイツサッカー連盟公認A級ライセンスを取得(UEFA-Aレベル)後、SCフライブルクU-15チームで研修を受ける。現在は元ブンデスリーガクラブのフライブルガーFCでU-13監督を務める。15年より帰国時に全国各地でサッカー講習会を開催し、グラスルーツに寄り添った活動を行っている。 17年10月よりWEBマガジン「中野吉之伴 子どもと育つ」(https://www.targma.jp/kichi-maga/)の配信をスタート。