去る10月31日、2022シーズン限りでリカルド・ロドリゲス監督が退任することを発表した浦和レッズ。その後任候補の一人として日本メディアの間で名前が挙がったのが、RBライプツィヒでアシスタントコーチと暫定監督を2度務め、ケルンやマインツの指揮を執ったアヒム・バイアーロルツァーだ。最終的には続報のないままマシエイ・スコルツァが新監督に任命されたものの、浦和サポーターから注目を集めた“ラルフ・ラングニック派”指導者の数奇なキャリアを、レッドブル・グループを追い続けるシロクロッソ氏にたどってもらった。
現オーストリア代表監督のラルフ・ラングニックがSDとして礎を築いたRBライプツィヒとレッドブル・ザルツブルク、いわゆる“レッドブル・グループ”からはサディオ・マネやダヨ・ウパメカノ、アーリング・ホーランドら世界的に有名な選手だけでなく、指導者も多くが巣立ち、最高峰の舞台で活躍している。ドイツにはRBスクールを意味する“RB Schule”というフレーズまであるくらいだ。
22-23シーズンのCL16強に勝ち進んだチームの監督に目を向けても、RBライプツィヒのマルコ・ローゼ、フランクフルトのオリバー・グラスナー、ベンフィカのロジャー・シュミット、バイエルンのユリアン・ナーゲルスマンら4人がレッドブル・グループでの指導経験を持っている。同様に浦和レッズ新監督就任の噂が流れたアヒム・バイアーロルツァーもRBライプツィヒで指導者としての研鑽を積み、花を咲かせた一人だ。
体育教師からU-17監督に転身
9人兄弟という大家族で育ったバイアーロルツァーは選手経験があるものの、下部リーグでプレーしていたうえ目立った成績はほとんど残していない。37歳になった2004年からは約10年間にわたりバイエルン州にある地元エルランゲン近郊のギムナジウム(日本の中高一貫教育に該当)で数学と体育の教師を務めながら、アマチュアチームで選手兼監督を務めていた。
最初の転機は2010年夏。当時トップチームがブンデスリーガ2部に在籍していたグロイター・フュルトのU-17監督に就任する。U-17世代の最高峰のリーグであるU-17ブンデスリーガの南・南西地区(3地区に分割したうちの1つ)に所属するチームを任されたのだ。同地区はシュツットガルトやフライブルク、ホッフェンハイムなど育成に定評のあるクラブも多く属している激戦区だが、バイアーロルツァーは12-13シーズンに首位と勝ち点4差の4位、13-14シーズンには首位と勝ち点10差の3位にチームを導いてみせた。
13-14シーズン中に行われた第60回フースバルレーラー(UEFA-PROと同等の国内指導者ライセンス)講習会では現ボルシアMG監督ダニエル・ファルケ、前ホッフェンハイム監督セバスティアン・ヘーネス、19年に東京ヴェルディの監督を務めたマイケル・ボリスらと机を並べる中、満点の成績で首席として卒業。加えてグロイター・フュルトが RBライプツィヒと練習試合を行った際、バイアーロルツァーの志向するサッカーと共通点を見出したラルフ・ラングニックからアプローチを受ける。当時のレッドブル・グループSDとの出会いをきっかけに、 コンフォートゾーンを抜け出し本格的に指導者として専念する決断を下したバイアーロルツァーは、教師の休職 (19年に教職免許失効)申請を行った。
ラングニックのバイアーロルツァー評
こうして、指導者を生業とするバイアーロルツァーの新たな人生が始まった。1年目となった14-15シーズンはRBライプツィヒで、グロイター・フュルト時代と同じU-17チーム(所属は北・北東地区)を率いた。ところが15年2月、当時のトップチームを指揮していたアレクサンダー・ツォルニガーとラングニックを含めた上層部の対立から監督の座が空位となってしまったため、バイアーロルツァーが暫定監督として後任に抜擢された。U-17チームでの成績は13勝2分2敗。最終的にこのシーズンに地区優勝を果たしたRBライプツィヒU-17は、優勝決定戦へと駒を進めている。
当時のバイアーロルツァーはシニアレベルでの指導経験がなかったが、シーズン途中にラングニックの要求を満たす人材を招へいできなかったこと、翌15-16シーズンの新監督探しに早くも動き始めていたこと、そしてラングニックが自身の要求をよりチームに反映させるため現場に近い立場に身を置きたかったことが抜擢の背景にある。
それでも、当時のユースコーディネーターを務めていたフリーダー・シュロフはバイアーロルツァーのことを「厳密で賢く、カリスマ性のある前向きで自信に満ちた指導者である」と評価しており、ラングニックも「U-17チームのサッカーに感銘を受け、バイアーロルツァーを信頼している」と任命理由を明かしている。……