町田のロナウジーニョが経験したユースの“ビデオ係”。横浜F・マリノス藤田譲瑠チマインタビュー(前編)
今のJリーグを見渡しても、最も勢いのある若手選手の1人であることは間違いない。藤田譲瑠チマ。20歳。7月にはA代表にも招集された新鋭が辿っているここまでの歩みは、順調すぎるほど順調であるようにすら見える。だが、高校3年生の夏までの立ち位置を思えば、ここまでの成長を予感していた人が、果たしてどれだけいただろうか――。
インタビュー前編ではサッカーを始めたきっかけから、東京ヴェルディユースで送っていた苦悩の日々までを振り返ってもらった。
石浦大雅とは保育園時代から一緒にボールを蹴っていた!
――サッカーを始めたのは3歳ということですが、どういうきっかけだったのでしょうか?
「自分の記憶にあるのが、3歳くらいの頃のクリスマスプレゼントとして、朝起きたらサッカーボールが横に置いてあったんです。いきなりボールがあった、という感じでしたね」
――そうすると、そのボールをお父さんと蹴り始めたところがスタートですか?
「そうですね。最初は家の近くの公園でボールを蹴り始めました。そのあとは少し大きくなってから、まだ保育園に通っていた頃に、近くの小学校のチームの体験練習にも参加していて、そのチームに入りたかったんですけど、『小学生にならないと受け付けないよ』ということで入れなくて、結局ゼルビアのスクールに入りました。それが4歳ぐらいの時ですね」
――FC町田ゼルビアの幼児スクールみたいな形ですか?
「そうです。そこで石浦大雅(東京ヴェルディ)と一緒になったんですよね」
――え? 石浦選手と藤田選手ってそんなに付き合いが長いんですか?
「はい。もう保育園の時に知り合って、自分たちの家の近くにある児童館で、閉館する夜の9時ぐらいまで一緒にボールを蹴ったりしていました」
――そんな人とあとあと同じチームになって、同じタイミングでプロになるって凄くないですか?(笑)
「凄いですよね。“縁”が凄いです(笑)」
――石浦選手と出会った頃は、もうサッカーにのめり込んでいたんですか?
「はい。凄く楽しくて、もうサッカーしかやっていないような感じでした」
町田大蔵FCで学んだサッカーの基礎
――最初の所属チームは町田大蔵FCですね。ここは小学校の少年団チームですか?
「そうです。小学校の少年団なんですけど、保育園の年長の時に同じクラスにいた友達のお兄ちゃんがその少年団に入っていて、その友達のお父さんがコーチもしていたので、僕がサッカーをやっていることも知っていたんです。それもあって『じゃあウチのチームに入らないか』と誘ってもらって、まだ年長でしたけど、その大蔵FCに入れさせてもらって、小学校の6年間もそのままプレーさせてもらいました。そのチームは先ほど言ったように、小学生から入れるチームだったんですけど、保育園の他の子も一緒にそこに入れてもらえた子が多くて、自分たちの時には“年長クラス”ができたので、そこでプレーしていました」
――以前お話を伺った時に「小学生の頃はドリブルばかりやっていた」とおっしゃっていましたが、町田大蔵FC自体がドリブル主体のチームだったんですか?
「当時のチームのコーチの考えとして、小学生の時は個の技術を高めることを重視していたように感じていましたし、この前にそのコーチと少し話す機会があったんですけど、『小学生の時から大人のサッカーをやり過ぎるのは良くないよね。やっぱり基礎のところが大事だよ』と話していたので、そういう基礎の部分は凄く教えてもらいました」
――「ボールを持ったら離さない」系のドリブラーでしたか?
「はい。ドリブルが好きでしたし、点を取るのも目立つのも好きだったので(笑)、ドリブルばかりやっていたような記憶はあります」
――小学生の頃はどのポジションをやっていたんですか?
「最終的にはいろいろなところをやっていたんですけど、小学校2年生まではCBをやっていて、3年生からボランチに転向して、6年生になってからFWやサイドハーフをやりながら、結局はボランチがメインでした」
――当時憧れていた選手はいましたか?
「ロナウジーニョがずっと好きでした」
――ロナウジーニョ!「どういうところに憧れていましたか?」と聞くのは野暮ですね(笑)。
「やっぱり楽しそうにサッカーをやるところですよね(笑)。90分間のプレーを見たことはなかったんですけど、自分の家がテレビを買い替えたことでYouTubeを見れるテレビになったので、初めてスーパープレー集を見た時に、他にもカカーや凄い選手の映像を見た中で、ロナウジーニョの動画だけ忘れられなくて、何度も同じ映像を見ていた記憶はあります。そういう映像は音楽もカッコいい曲を使っているので、それも含めて『メッチャカッコいいな』って思いました(笑)」
――小学校6年生の時に東京都トレセンに選ばれたんですよね。これはより上を目指そうというきっかけになりましたか?
「トレセンに選ばれた時は、何のことだか自分では全然わからなかったんですよね。連絡をもらった時は、レベル的に言うと町田市トレセン、第11ブロックトレセン、東京都トレセンが順番にあって、第11ブロックトレセンのセレクションを受けることになっていた日の朝に、チームの監督から『東京都トレセンに選ばれたから、今日のセレクションは受けなくていいよ』という電話をもらって、そこで初めて東京都トレセンの存在を知ったんです。それから東京都トレセンの練習には1年間を通して参加しましたけど、もともとサッカー選手になることが夢だったので、トレセンに選ばれたこと自体で、そんなに自分の中で大きな変化はなかった気がします」
――そうすると、当時はブロックトレセンに選ばれることが目標だった感じですか?
「そうですね。その時はブロックトレセンのセレクションでずっと緊張していたような感じで、今でも東京都トレセンにはそんなに強い記憶はないんですけど、昔ヴェルディにいた武田(修宏)さんがコーチをやっていたことは覚えています(笑)」
――おお! 武田さんに指導してもらう機会は貴重ですね(笑)
「テレビに出ている人というイメージだったので、『ああ、実は“そっち系”の人だったのか』と思いました(笑)」
小学生の頃は「自分が一番上手い」と思っていた
――そこからヴェルディのジュニアユースに入るわけですよね。これはセレクションを受けたんですか?
「練習会への参加です。セレクションと練習会が分かれていて、ヴェルディから呼ばれた選手が参加するのが練習会で、自分から申し込んで参加するのがセレクションだったと思うんですけど、僕は練習会でした」
――練習会に呼ばれた時のことは覚えていますか?
「自分のチームからは5人ぐらいで一緒に行ったんですけど、あまり覚えていないですね」
――FC東京の練習会にも参加していたんですよね?
「FC東京は練習会ではなくて、ジュニアユースの練習に参加させてもらいました。そっちは覚えていますね」
――ヴェルディは地域の中でもレベルの高いチームというイメージがあったと思うんですけど、練習会に行くことへの躊躇はなかったですか?
「もう本当に狭い世界でずっとサッカーをやっていたので、ヴェルディにジュニアユースがあることすら知らなかったですし、当時の小学校の時のコーチがヴェルディ相模原出身で、結構ヴェルディのアカデミーとも関わりのある方だったので、レベルが高いということは教えてもらった中で、『最近は全国大会にはそこまで行けていないけど、育成としては凄く良いところだよ』と言われたことで、初めてそういうクラブだということを知りました」
――逆に「ヴェルディは上手いチーム」みたいなイメージがなかったことも、練習会の時は幸いしたんですかね。
「それもあると思います。もう本当に『自分が一番上手いだろ』ぐらいの時期だったので(笑)、自信を持って練習会には行けたのかなと思います」
――「オレが町田のロナウジーニョだ」と(笑)。
「本当にそんな感じだったと思います(笑)」
――練習会に合格してヴェルディのジュニアユースに入ったのだと思いますが、そうすると最初は「結構いいクラブに入れたな」ぐらいの感覚でしたか?
「選ばれた時はさすがに喜んだと思います。ただ、FC東京の結果待ちをしていた時で、電話でヴェルディの合格を聞いて、『そんなに長くは待てないので、早めに決めてください』ということだったので、FC東京に受かるかどうかもわからない状況でしたし、リスクを取るよりは『受かったヴェルディに行かせてもらいます』というようなテンションだったような気がします」
――FC東京にはやっぱり「J1でやっているチーム」というイメージもありましたか?
「それもありますし、東京都トレセンは3つのグループに分かれて、M-T-M栃木、ワールドチャレンジ、埼玉国際という夏の大会に出るんですけど、僕はM-T-M栃木のグループに入って、練習試合でFC東京のジュニアユースとやった時に、何十対ゼロぐらいの感じで負けたんです。そこで『FC東京のジュニアユースはメチャクチャ強いな』という印象があったので、ちょっとFC東京に憧れていたところもあったと思います」
「大人のサッカー」に戸惑ったジュニアユース時代
――ヴェルディのジュニアユースに入った当初は、カルチャーショックやレベルの差を感じましたか?
「感じたと思います。ヴェルディのジュニアから昇格した選手と、外部から来た自分との考えの違いや、サッカー観の差は凄く感じて、難しかったのは覚えています。自分はボランチをやっていたので、右サイドから左サイドにサイドを変えるという考え方が、なかったわけではないですけど、中学生になってその数が圧倒的に増えた印象があって、いきなり『大人のサッカー』になった感じがしたんです。最初はそういったところに苦労しましたね」
――得意のドリブルは封印していたんですか?
「封印していたところもあれば、周りのフィジカルが強くなってきて、なかなか通用しなくなったこともあります」
――ジュニアユースに入った時には上の学年に藤本寛也選手(ジル・ビセンテ/ポルトガル)や森田晃樹選手(東京ヴェルディ)もいたと思いますが、彼らはやっぱり上手かったですか?
「自分は先輩とは全然関わっていなかったので、寛也くんなんてジュニアユースの時は名前すらほとんど知らなかったですし、ユースになってもたぶん一言二言ぐらい喋っただけだと思います(笑)」
――それこそジュニアユースの最初の2年間は、いわゆるAチームの試合には絡めなかったですか?
「ジュニアユースは基本的に中3は中3、中2は中2というチーム構成なので、ほとんどそういう形で選手が分かれているんですけど、その中でも能力の高い選手は上の学年でやったりするんです。僕はずっと自分の学年のカテゴリーでやっていました。学年ごとにある公式戦にはずっと出ていましたね」
――中学3年生の最後にあった高円宮杯は全国大会に出ていて、ベスト8まで勝ち上がったと思いますが、これが初めて出た全国大会ですよね。
「はい。いつも通りの試合の感覚でやっていましたけど、プレーというよりは、年末の週末に試合があったので、勝ち進んでいる間は、平日の夜の練習が終わってからみんなで試合会場に向かって、ホテルで前泊して、試合があるというサイクルが続いていて、それが凄く楽しかったですね。それまでは前泊して試合みたいなことはそこまでなかったですし、新鮮な感じが楽しかったです。もうジュニアからとか、ジュニアユースからとか、そういう分け隔てもなく、みんなが同じチームの選手として戦えていた頃でした」
“ビデオ係”担当には自分で立てた戦略があった!
――高校時代はヴェルディユースに昇格しています。他の選択肢もありましたか?
「なかったです。ジュニアユースの時から、なぜかわからないですけどユースに上がれる確信があったので、ユースに上がることと、どこの高校に行くかということしか考えていなかったです」
――ユースの昇格は早い段階から言われていたんですか?
「夏過ぎには言われていたと思います」
――僕が初めて藤田選手のプレーを見た試合は、後半開始から途中出場で出てきて、後半の終盤で交代で代えられた試合だったんです。試合後に当時の永井秀樹監督に「なぜあの選手を“インアウト”させたんですか?」とお聞きしたら、「期待しているから投入したけれど、相手をちゃんと見ることができていなかった」と話されていて、「ああ、高校生にそういうところまで要求するんだな」と思いました。その試合って覚えてますか?
「覚えています。高2になる年の新人戦(東京都クラブユースU-17選手権)ですね。その年は自分の中でも調子が良かったというか、たぶんその1つ前の試合はスタメンで、自分も初めて公式戦のピッチに立ったにしては良いプレーができたと思っていましたし、その試合の前の練習でもAチームの方に混ぜてもらえて、自分の中でも自信がついてきていたんです。その試合は後半からピッチに立って、正直プレー内容は全然覚えていないですけど、自分のミスからファウルになって、そのセットプレーで自分のマークの人に決められて、逆転負けした試合だったんです。その直後の交代だったので、凄く悔しかったのは覚えています」
――その頃は例えばそういう悔しい想いがあったり、試合にもそこまで出られなかったりと、ご本人にとってみれば大変な時期ですよね。
「高1の時も精神的にキツかったですけど、高2の方がもっとキツかったですね」
――「キツかった」というのを具体的に言うと、どういう部分がキツかったんですか?
「ユースは人数が多いので、練習できるメンバーとできないメンバーがいるんです。自分は1年から2年の大半まで“練習できないグループ”というか、Aチームと呼ばれるチームがグラウンド内でやるとしたら、Bチームは奥にもう1つあるグラウンドで、そっちは電気もつかないんですけど、そこで1対1とか基礎練習みたいなことを黙々とやるようなグループだったので、その中でも2年生の時にもそれをやっていたのは僕を合わせても多くて2、3人ぐらいで、自分と同じ学年の仲間にも置いていかれているような感じがあって、凄くキツかったですね」
――ユースの1、2年生の頃の藤田選手の立ち位置として、“ビデオ係”をやっていたというエピソードがよく出てくると思うんですけど、そのあたりの真相を教えていただけますか?
「ユースの時は、ほとんどの1年生が試合には絡めないので、ボールパーソンや本部に入って交代をチェックしたり、担架を持ったり、グラウンドの入り口でパンフレットを配る係とかがあるんですけど、ずっと1つの係をやることが決まっているわけではないんですね。でも、僕が率先してビデオ係をやっていたのは事実です。理由としては、まず本部はいろいろ書いたりしなくてはいけないので、大変な仕事だから『やりたくないな』と(笑)」
――交代選手を書いたり、いろいろな確認が必要ですからね(笑)。
「ボールパーソンはピッチでの仕事なので、試合が上から見えないじゃないですか。あと、入口でパンフレットを配る係も、試合は見れますけど、人と関わるのもそこまで得意ではなかったのでやりたくなくて(笑)。そういう消去法の中で、ビデオ係は2人か3人ぐらいでクラブハウスの上から映像を撮るので、まず屋上から試合をしっかり見られるんですね。さらに、90分を3人で割って、3人ぐらいで交代しながらやれて、あとの2人は休憩というか、試合を見られるので、仕事量と試合観戦という面ではいいなあと(笑)。もちろん上から試合を見られることで、ただ見るよりも自分で考えながら見られたら、勉強にもなるなというイメージもありました」
――最後に上手いことまとめましたね(笑)。
「いやいや、本当ですよ(笑)。そこにいる人たちと『今のプレーはこうだったね』とか『そこ、右!右!』とか話しながらやっていたような記憶はあります」
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!