【1万字】アヤックスからマンチェスターUの救世主へ。エリック・テン・ハフ物語
18-19シーズンのCLでアヤックスをベスト4に導き、以降もクラブを「欧州レベル」に維持してきた名将エリック・テン・ハフ。悩めるマンチェスター・ユナイテッドが次期監督に指名したのは彼だった。52歳のオランダ人は地道に指導者の道を歩み、育成、マネージメント、戦術などを学び、そのすべてを駆使してアヤックスで結果を残した。思考力と計画性を併せ持つ稀有な人物の物語を、オランダサッカーを見続ける中田徹氏が綴る。
トゥエンテがPSVとのPK戦を制し、KNVBカップを戴いた00-01シーズンKNVBカップ決勝戦(0-0)は「GKサンダー・ボスカーが超人的なPKストップをした決勝戦」として今も人々の記憶に残っている。キャプテンの腕章を巻いてMFとしてゲームをコントロールし続けたエリック・テン・ハフは、女性テレビキャスターに祝福のキスを頬にもらって「レッカー! レッカーーー!!(すごく気持ちがいい)」と絶叫していた。
もともとはトゥエンテのサポーター。かつてのホーム、ディークマン・スタディオンのことなら「隅から隅まで知り尽くしている。このスタジアムは私の家だった」と後年振り返るほどの熱心なサポーターだった。やがてテン・ハフはトゥエンテの育成組織からトップチームに上がり、デ・フラーフスハップ、RKC、ユトレヒトでのプレーを挟みながら、3期に分けてトゥエンテでプレーした。
現役時代はトゥエンテの主将
社交的。真面目。戦術に強い。よくしゃべる。リーダータイプ――。
かつての記事を読み返すと、現役時代のテン・ハフの人物像が浮かび上がってくる。監督に対して戦術面で疑問を感じると黙っていられないタイプだったともいう。ときに大口が過ぎて指揮官を怒らせることもあり、ロブ・バーン監督(92年から94年までトゥエンテを指揮。日本では小野伸二を獲得したフェイエノールトのTDとして知られている)から3試合の謹慎を命じられたという報道もある。テン・ハフ自身は、現役時代のことをこう振り返る。
「現役時代、チームメイトと一緒になって表に出せないことをやってたけれど、試合の前数日間はしっかり避けていた。ハンス・マイヤー監督は『アルコールは毒だ!』といつも言っていたが、泥酔さえしなければ文句を言わなかった。しかし、エンスヘデ(トゥエンテの本拠地の町)は“大きな村”で市民によってコントロールされていた。選手の一人(記事では実名)が足首を捻挫して『階段でコケた』と言って練習場に現れた。階段で足を踏み外したのは事実。しかし、ディスコだったことがバレてしまった。以降、僕たちは監視のきかないアムステルダムで飲むようになった」
わざわざ200km近くも離れたアムステルダムまで遠出して飲みに行っていたのだ。ワーカーホリックとして知られ「フットボールは24時間産業だ」と公言する現在のテン・ハフに当時の面影はない。
98-99シーズンのトゥエンテは予算の帳尻を合わせるため、リーグ戦4節を終えた時点でストッパータイプのニコ・ヤン・ホーフマ(前KNVBダイレクター)をハンブルクに放出した。CBを務めていたテン・ハフは、後に解説者としてブレークするヤン・ファン・ハルストとCBコンビを組んだ。
「私とヤンはともに本来はMFだった。冬の移籍市場でグルジッチ(旧ユーゴスラビア代表)が来るまでの半年間、トゥエンテはCB不在で戦っていた」
その後、テン・ハフとグルジッチは名コンビを形成した。
翌99-00シーズンからテン・ハフはトゥエンテの主将に就き、翌季のKNVBカップを獲得するまでの2年間、自身のベストシーズンを過ごすことになった。当時の背番号は20。『ミスター・FCトゥエンテ』として知られたかつての名手、エピ・ドロストが着けた20にリスペクトを表してプレーしていた。
「私はサブトップレベルのクラブに適した選手で、トップにたどり着くにはパワーとダイナミズムが欠けていた。当時のサッカー界はその分野のトレーニングが十分ではなかった。今の知識があれば、私はもっと良いフットボーラーになっていたと思う」
恩師フレッド・ルッテンの下で育成を学んだPSV時代
01-02シーズンを最後にテン・ハフは引退した。『デ・テレフラーフ』紙は「ファン・ト・シップ監督(現ギリシア代表)の構想から漏れたテン・ハフはそのまま引退を決意した」と報じた。テン・ハフはトゥエンテに残って育成を担当することになった。当時の教え子たちが口を揃えるのは「テン・ハフは誰よりも上に立って振る舞い、一寸の妥協も許さぬ厳格な指導者だった」ということ。後に彼らはプロの世界でテン・ハフのもとでプレーすることになる。
2009年、PSVの監督に就任したフレッド・ルッテンに誘われ、テン・ハフはアシスタントコーチを務めることになった。しかし、彼はトゥエンテとの契約を1年残していたため、違約金のことで揉めて裁判沙汰になってしまった。父ヘニー・テン・ハフはトゥエンテの監査役会の一員だったため、クラブ側に付かざるを得なかった。裁判は結局、テン・ハフの勝利に終わったが、愛するクラブとの裁判は彼の心に大きなダメージとして残った。
「トゥエンテでは起こってはならないことが起きてしまった。裁判で決着をつけるような事態になってはならなかった。私は人生の半分以上をトゥエンテに捧げてきたんだ。裁判で私はとても傷ついた。しかし、それはもう過去のこと。今(2013年)、私はゴー・アヘッド・イーグルスの監督兼テクニカル・マネージャーとしてトゥエンテの選手をレンタルすることができるし、トゥエンテのスタジアムに行ってかつての仲間と会えるようになった」
また、テン・ハフは「実は2009年に一度、私は監督としてあるクラブからオファーを受けていた」と明かしたことがあった。以下のコメントは、彼の指導者としての道のりを簡潔に現している。
「私は2009年に監督になることができた。しかし私はもう一度、ハイレベルなプロフェッショナルな環境でアシスタントトレーナーを務めながら学びを深めたいと思った。当時のPSVは監督がフレッド・ルッテン、もう1人のアシスタントがレネ・アイケルカンプだった。私とフレッドとの間には友情と呼べるものが存在している」
最近のオランダの新聞で、ある学者が「テン・ハフは早くトップに立つことを目指すタイプではなく、いかにいい形でトップに立つかを目指すタイプの指導者だ」とコメントしていた。2009年のオファーがアマチュアクラブだったのか、2部リーグのクラブだったのかはわからない。ともかくテン・ハフは、オランダ指導者界では抜群の高い評価を受けているルッテンのもとで研鑽を積むことを選んだ。以下はルッテンの回想だ。
「私がトゥエンテの監督を務めていた時、エリックはグルジッチとCBを組んでいた。(本来MFの)エリックは考え抜いてプレーすることを強いられた。もっとも普段から彼は熟考しながらプレーするタイプではあったけれどね。やがて彼はトゥエンテの育成に携わり、私は再びトゥエンテに戻って監督の座に就いた。この時、私たちの息が合った。私が彼をPSVに呼んだのには当然訳があったんだ。彼はPSVで若いタレントの成長に責任を与えられていた」
当時、PSVにはメンフィス・デパイ(現バルセロナ)、ラビアド(現アヤックス)、ヘンドリクス(現フェイエノールト)といったタレントがトップチーム昇格までの最後のひと磨きの時期を過ごしていた。トップチームで優勝を目指しつつ、タレントの融合を図る仕事は充実していたようだ。しかし、トップチームの成績が振るわなければ監督が責任を取るのが勝負の世界の常。ルッテンは2012年3月、PSVを解雇され、同時にテン・ハフも退団した。
「まだ、このプロジェクトは終わっていないのに……」
この悔しさを胸に、一時、テン・ハフは身を隠し、次のステップへの準備を進めていた。
監督デビューは英国式。ゴー・アヘッド・イーグルス時代
ゴー・アヘッド・イーグルスは1960年代、70年代に黄金期を迎えたクラブだが、2000年代初めには破産の危機を迎えるなど長い低迷期を過ごし、エールディビジの舞台は95-96シーズンを最後に久しく遠ざかっていた。マルク・オーフェルマルスなど、著名OBが復活に向けて動き出し、オーフェルマルスは2005年に役員になったばかりでなく、一時は電撃的に現役復帰も果たしたほどだった。しかし、オーフェルマルスは2012年からアヤックスのテクニカル・ダイレクターを務めることになり、テン・ハフをゴー・アヘッド・イーグルスの監督兼テクニカル・マネージャーに任命してからクラブを去っていった。
ゴー・アヘッド・イーグルス就任直後の夏合宿で、テン・ハフはメディアに対して語っている。
「これまで私は指導者ライセンスを取ったばかりの人たちが、即座にオファーに飛びついて監督になって、信じられないようなミスを重ねて失敗してきたことを見てきた。私はマクラーレン(元トゥエンテ監督)、ルッテンといった素晴らしい監督のもとで研鑽して成長してきた。PSVでの役目が終わった時、『今度は自分で監督として采配を振る時が来た』と感じた」
この時、テン・ハフは42歳。引退してから実に10年の月日が過ぎていた。しかもテクニカル・マネージャー兼任だ。
「今の時代は外側からの印象が、内面より重要視されつつある。いかに良い見栄えがするか、いかに振る舞うか、いかに自身を表現するか――。そのようなことに注目が集まる。そのこと自体を否定するつもりはないが、もっと大事なのは職業人としての知識といったこと。最後に成功をつかむことになるのは、そこだ。1人のサッカー選手をいかに指導するか、そこには多くの側面がある。私は監督としてフィロソフィの範囲内で様々な点からチームと選手を向上させていかないといけない。私はルッテとマクラーレンから大きな影響を受けたが、私はエリック・テン・ハフ。私は自分の道を歩む。私はテクニカル・マネージャーを兼任することにした。私は組織を作るのが好きだ。イングランドスタイルでマネージメントするのは私にとっても、(イングランドらしい雰囲気を持つことで知られる)ゴー・アヘッド・イーグルスにとっても合った方法だ。もちろん忙しい。しかし、問題ない。フットボールは24時間産業だ」
ゴー・アヘッド・イーグルスは20歳から23歳の選手が中心になって戦う若いチームだった。テン・ハフはここで『若手を上達させる達人』として名を馳せた。……
Profile
中田 徹
メキシコW杯のブラジル対フランスを超える試合を見たい、ボンボネーラの興奮を超える現場へ行きたい……。その気持ちが観戦、取材のモチベーション。どんな試合でも楽しそうにサッカーを見るオランダ人の姿に啓発され、中小クラブの取材にも力を注いでいる。