2022年シーズン。松本山雅FCはクラブ史上初めて、J3のステージを戦う。かつては確かな『山雅らしさ』を携え、J1のステージで躍動したチームは、反町康治というカリスマ指揮官の退任と時を同じくして、苦難のフェーズへと足を踏み入れていった。だが、時計の針は巻き戻らない。掲げたスローガン『原点回起』には、名波浩監督とともに新たな時代を築こうという決意が込められている。アルウィンは『ポスト反町』の幻影を消し去り、再び熱狂を取り戻せるのか。クラブの歴史に寄り添ってきた大枝令が、厳しくも温かい率直な視点で、その大きな命題と向き合う。
新体制発表会で指揮官が口にした「その名前」
1月10日、松本山雅FCの新体制発表会。続投が決まった名波浩監督は最後に、選手を後ろに従えながら「その名前」を口にした。
「反町さん時代のことをよく耳にした。もっと走っていた、球際で戦っていた、最後まで諦めずにゴールを守っていた、リスクを冒してどんどん前に行っていたと。今シーズンはその姿をしっかり後ろの選手たちが見せてくれると思っている」
その名を公の場で発し、クラブスローガンでもある「原点回起」への強烈なメッセージを発した。Jリーグに参入して11年目という新たなディケイドが始まる松本。その一歩を踏みしめるに際し、十分過ぎるほどのインパクトがあった。
この10年。松本は地道に積み上げ、あっという間に手放した。2012年にJリーグに参入し、わずか3年でJ1昇格。その後も2019年シーズンにJ1を戦った。しかし長期政権にピリオドを打って以降、わずか2年間で直滑降。その結果、11年目の今季は初めてJ3で戦うことを余儀なくされた。
松本山雅とソリさんの“出会い”と“卒業”
この物語は、一人の偉大な人物を軸に語らざるを得ない。
反町康治。
松本の監督を退任し、現在は日本サッカー協会の技術委員長を務めている。つい先日、58歳の誕生日を迎えたばかり。酔狂にも就任した当初は硬い人工芝や、天然芝でも整備されていないような環境のグラウンドを転々として、トレーニングに勤しんでいた。選手たちは、アマチュア上がりかJリーグから押し出された面々の集合体。本人は往年のマンガになぞらえ、「アパッチ野球軍」と自虐的に表現したこともある。
技術が未熟なら、倒れるまで走れ――。
基本的には、それがすべてだった。もちろんボールトレーニングはあるが、素走りを含めたランメニューの負荷が絶大だった。しかも、サッカーの実戦において数多く発生するターンを取り入れた内容。守備の決まり事はエリアごとに細かく設定したが、ことゴール前でのタイトさに関しては妥協を排して、徹底的にこだわった。後年、これがピッチ内における「山雅らしさ」として語られることになる。
かくして、「ビルドアップ」という概念すら存在しない直線的なサッカーが、極限に近い領域まで洗練されていった。底なしの運動量をベースとし、見るものに「伝わる」そのスタイルは地元で支持を拡大。ミイラ取りがミイラとなってさらにミイラを呼び、サポーターは雪だるま式に増えていく。JFLや北信越リーグ時代から規格外だったその熱量は、さらにヒートアップした。
このスタイルで2014年にJ1昇格。だが翌年に1年で跳ね返され、16年は5レーンを導入してビルドアップから仕込むよう大幅にシフトチェンジした。もちろんすべてが思い通りに進んだわけではないが、紆余曲折を得て18年に再びJ1昇格。「J1定着」を中長期的な目標に据えるクラブにとって、2度目のJ1こそ生き延びて、次なるステージへ進むべき勝負のシーズンと言えた。
しかし、結果は再び1年での降格。反町監督は引き出しをありったけ使い切ったし、選手たちもフルパワーでそれに応えようと努力を惜しまなかった。それでもなお及ばなかった、苦難のシーズン。ここで、8年間にわたる長期政権にピリオドが打たれることとなった。いわば「ソリさんからの卒業」だ。
「ポスト反町」に悩まされる苦難の日々
問題はその後、「ポスト反町」だった。
もちろんクラブは、長きにわたって心血を注いだ功労者の反町氏にはリスペクトを払った。アドバイザー的な名誉職を打診し、本人も受諾。後任には、反町氏とS級ライセンス同期受講者の布啓一郎氏を引き入れた。この選択を主導したのは、当時編成部長の柴田峡氏(現・ラインメール青森監督)。自身もトップチームコーチなどとして反町監督の下で仕事をした立場で、「ソリさんに顔向けできない人事だけは絶対にしない」と首脳陣に猛プッシュして、実現に漕ぎつけた。
布監督に託されたミッションは1年でのJ1復帰と同時に、次なるステージに導く土台の形成。それは2019年のJ1でクラブが得た重い「教訓」でもあった。……
Profile
大枝 令
1978年、東京都出身。早大卒。2005年から長野県の新聞社で勤務し、09年の全国地域リーグ決勝大会で松本山雅FCと出会う。15年に独立し、以降は長野県内のスポーツ全般をフィールドとしてきた。クラブ公式有料サイト「ヤマガプレミアム」編集長。