「地方クラブは大泉洋を生み出せ」前FC琉球社長・三上昴が辿り着いた1つの答え
三上昴(前FC琉球代表取締役社長) インタビュー前編
ゴールドマン・サックス出身でJリーグ史上最年少の31歳でFC琉球の社長に就任、現在はそこでの経験をもとにクラブ経営の外部コンサルを行っている三上昴のTwitterが面白い。Jリーグ、そして日本のスポーツ界への斬新な提言を続ける男にツイートの背後にある真意を語ってもらった。
前編では、風間八宏氏の教えを受けた筑波大学時代を含めたユニークなキャリアと、FC琉球で得た学び=持続可能なサッカークラブ経営の本質について掘り下げてもらおう。
ゴールドマン・サックスから史上最年少社長へ
――まず、三上さんのキャリアについてお伺いできればと思います。筑波大学時代は、選手として風間八宏さんの指導を受けられていたんですよね。どのタイミングでサッカークラブ経営に興味を持たれたのでしょうか?
「僕はプロサッカー選手になりたいという思いを持って筑波大学に進学をして、風間さんの指導によって自身の成長をすごく感じていました。なので、卒業後もプロ選手としてやるんだという気持ちがあったんです。だけど大学4年生の最後の時に、それが急にぷつっと切れてしまって……。それで、逃げるように進路を大学院進学に決めました。大学院ではMBAを専攻して、その時の研究テーマとして水戸ホーリーホックの経営課題の研究をさせてもらいました。ただ、その時はたまたま研究テーマに選んだという感じで、そこまで経営自体への興味はなかったです。むしろ、サッカーから離れた世界でプロフェッショナルになりたいという思いが強かったですね。そうやって大学院で1年を過ごしていく中で、やっぱり勝負の世界、自分を高められる舞台にもう一回行かないとJリーガーをやっている同級生に負けてしまうと思うようになったんです。自分がレベルアップできるような勝負の世界ってどこだろうと考えた結果、厳しい世界で戦うハイレベルかつグローバルな企業としてゴールドマン・サックス証券株式会社を選びました」
――ゴールドマン・サックスへはどういう経緯で入社されたんですか?
「普通に就職活動を経て入社しました。就職活動をする中で、理屈ではなく感覚で『すごく魅力的だな』と思えた会社がゴールドマン・サックスだったんです。実は僕、風間さんに出会った時も『この人、すごいな』という感覚があったんですよ。だから最終的な判断のところは、自分の感覚を頼って就職を決めました。ゴールドマン・サックスは、サッカークラブでいえばFCバルセロナみたいに感じたんです。営業マン一人ひとりの顔が見えた会社だった。個人で戦う会社という感覚を強く受けました。それって、風間さんが目指しているサッカーに似ているなと。ですから、自分自身が個として戦えるフィールドを求めて入社しました」
――三上さんがおっしゃる風間さんに出会った時の衝撃というのは、どのような感じでしたか? また、風間さんの指導を受ける中で印象に残った話などもぜひ伺えればと思います。
「風間さんはすごかったですよ。僕が衝撃的だったのは、組織を一気に強くしたことでした。1人の力では変わらない、みんなで頑張らなきゃチームは良くならない、とずっと思っていたんですけど、風間さんは1人でチームを変えてしまった。例えば、僕が2年時の筑波大学は関東1部リーグで降格ギリギリだったんです。でも、風間さんが来た次の年にインカレで準優勝しました。1人の力ってこんなに大きいんだというのを、実際に肌で感じました。風間さんがよく言っていたのは『トップを引き上げろ、目線を合わせろ』ということです。自分の目線が低かったらそれ以上のものにならないから、みんなを引っ張り上げてそこに合わせるという組織の作り方をするんです。チームみんなで頑張るとか、下の人を引き上げるというやり方ではなく、上の基準をどれだけ引き上げるかという考え方です。風間さんはとにかくぶれずにやっていくところが、とても強い人だと思いました」
――三上さんは証券会社というサッカーとは別のフィールドで活躍を続けていく中で、2018年にFC琉球の取締役に就任されています。
「2018年6月のロシアW杯を見ていて、自分の1個上の世代である本田(圭佑)選手や長友(佑都)選手と自分の間に大きな差を感じたんです。彼らに負けないように外資系の厳しい世界に行ってリスクを取ってきたと思っていたキャリアが、実はサラリーマンという立場に守られた世界にいただけなんじゃないかという感覚が芽生えてきました。その思いに対して純粋に行動しなきゃいけないと考えた時、やっぱりサッカーの世界だなって考え始めたんです。風間さんに出会った経験みたいに、サッカーの世界で勝負している方に触れることで自分はもっと磨かれるんじゃないかなと。ちょうどその頃に現在FC琉球の会長を務められている倉林さんに声をかけていただいて、行くことを決めました。当時琉球はJ2に昇格したタイミングでしたね」
――最初は取締役としての加入でしたが、FC琉球ではどのような仕事をされていたんでしょうか? また、2019年4月にはJリーグクラブ史上最年少の31歳で代表取締役社長に就任されています。その経緯についてもお聞きかせください。
「先ほども言ったようにとにかくサッカーの仕事がしたかったので、僕はサッカークラブで何をやるかを綿密に考えて、いろんな勉強もして沖縄に行ったんです。でも、今まで培ってきた僕のアイディアでは誰の心も動かしてないことに、2カ月ぐらい経って気づきました。それからは、『Jリーグクラブの仕事はサッカーの仕事じゃないんだ』と考えるようになってきたんです。それ以前に、沖縄の方々にとってFC琉球はどういう存在なのかをもっと追求しないと、誰の心にも火をつけられない。目指さなきゃいけない先にあるのは例えばオリオンビールとか首里城とか、沖縄の人たちが大切にしている世界観なんだと気づいたんです。それで、クラブが何を大事にしているかとか、どういう世界を目指すのかについて、非常に敏感になりました。
代表取締役社長になった経緯としては、僕がクラブに入って半年経った頃の柏レイソル戦がきっかけだったかなと記憶しています。観客動員数が7900人以上で、クラブの歴史の中でも相当集まってスタジアムの盛り上がりがすごかった試合でした。沖縄の様々なメディアが協力してくれて、いろんな人を巻き込んで発信させてもらえたのが大きかったですね。J3優勝でついた火を温めて大きくしてきた感じです。会長にそうした活動を評価していただき、代表取締役社長に就任したという流れでした」
サッカークラブは「熱狂あるスタジアム」がすべて
――先ほど、2018年にFC琉球の取締役に就任してからの2カ月ほどは誰の心も動かせなかったというお話がありましたが、沖縄の人たちの心に響かせるために三上さんが取り組まれたことについてもお聞きかせください。
「沖縄の人たちと過ごす時間をとにかく大切にしました。経営者の方々や地域の各カテゴリーのサッカーチームの方々といろいろな場で接していく中で、彼らが大事にしているものや考えていることに触れてきました。そういった経験を通して、沖縄の方々ってすごく心が豊かだなと思ったんです。例えば、ラフプレーとかブーイングをしてでも相手を倒して試合に勝とう、みたいな空気はあまりないんです。敵味方含めていいプレーがあったら拍手が起きるし、相手チームに元所属選手がいたら拍手で出迎える。そういうスタジアムのあり方というのが沖縄の愛情の表現の1つなのだと感じましたし、それをクラブ側からも発信していければいいんじゃないかと。だから、僕は沖縄の愛にあふれたスタジアムを作ろうって言っていました」
――FC琉球で代表取締役社長として仕事を始めるにあたって、三上さんがどういうクラブを作りたいかを共有するためのフィロソフィを作られたんですよね。……
Profile
浅野 賀一
1980年、北海道釧路市生まれ。3年半のサラリーマン生活を経て、2005年からフリーランス活動を開始。2006年10月から海外サッカー専門誌『footballista』の創刊メンバーとして加わり、2015年8月から編集長を務める。西部謙司氏との共著に『戦術に関してはこの本が最高峰』(東邦出版)がある。