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15歳で下した成長への決断。 京都サンガ・川﨑颯太の覚悟が導く未来

2021.07.12

川﨑颯太(京都サンガF.C.)インタビュー前編

曺貴裁監督を新指揮官に招聘し、J2リーグの前半戦を2位と昇格圏内で折り返した京都サンガF.C.。選手個々がのびのびと躍動しているチームの中で、プロ2年目の若武者が圧倒的な存在感を放っている。

川﨑颯太。19歳。小学生時代と中学生時代をヴァンフォーレ甲府のアカデミーで過ごしながら、高校進学と同時に単身で京都サンガF.C.U-18へ飛び込み、トップチーム昇格を勝ち獲るなど、若くして独自のキャリアを歩んできている。今回はここまで辿ってきたキャリアや、今シーズンの活躍についてインタビュー。

前編ではサッカーを始めた甲府時代、京都U-18を進路に選んだ理由など、キャリアの話題を中心にご紹介する。

ヴァンフォーレ甲府の試合に“年パス”で通っていた少年時代


――今日はキャリアのお話を伺いたいと思っています。まず、小学校に上がる前からヴァンフォーレ甲府のスクールに通われていたと聞きましたが、入った経緯を教えていただけますか?

 「親がサッカーをさせたかったらしくて、僕の幼馴染みの“ママ友”の影響で入ったんだと思います」


――自分から「サッカーをやりたい!」と望んだわけではなかったのでしょうか?

 「スクールに行っても、ボールよりも砂で遊んでいたとか、試合そっちのけで、キーパーをやってるかと思いきや、ゴールにぶら下がって遊んでいた、というような話は聞いたことがありますね(笑)。ただ、最初は遊んでいたらしいですけど、『点を決めたらご褒美だ』とか、どんどんやる気を引き出してくれたことで、点を取る喜びや、サッカーをプレーする喜びを感じていったのだと思います」


――ヴァンフォーレの試合は、ご家族で見に行っていたんですか?

 「そうですね。“年パス”みたいな感じで、毎試合のように見に行っていたと思います」


――その頃に憧れていた選手はいましたか?

 「小学生ぐらいの頃は、柏好文選手(サンフレッチェ広島)が18番で、本当にサイドを切り裂く姿がカッコいいなと思って、その影響でジュニアの時の背番号も18番にしていましたし、憧れていましたね」

川﨑少年が同じ背番号18をつけるほど、憧れていたという柏選手のドリブル集


――試合のエスコートキッズもされていたそうですね。

 「名古屋グランパス戦で、林健太郎選手のエスコートキッズでした。観客席から見ていたグラウンドに実際に入って、選手と手を繋いでというのは、嬉しかったと思います。実家にその時の写真はまだ飾ってあるはずです」


――ヴァンフォーレ甲府のジュニアには、小学校4年生から入ったんですよね。

 「はい。ジュニアは小学校4年生から6年生までなので、それまではフォルトゥナSCとヴァンフォーレのスクールを両立していました。フォルトゥナの時は、ほとんどと言っていいほど年上の人とサッカーをしていて、自分よりも大きくて上手い人たちとプレーする中で、“負けず嫌い”が出てきたというか、大きな相手にも立ち向かう気持ちは、その時に学んだのではないかなと思っています」


――ヴァンフォーレのジュニアはセレクションでの入団ですか?

 「セレクションです。手応えはあったはずですけど、受かったと言われて嬉しかったのは覚えていますね。90人ぐらい受けて、合格したのは13人だったと思います」


――入ってみて感じたチームのレベルの高さや、サッカーの楽しさの部分はいかがでしたか?

 「ヴァンフォーレで西川陽介監督の指導を受けてからは、たぶん1年で700試合ぐらいやっていたんじゃないかなと。週末になったら朝の5時に集合して、バスで移動して、朝の9時ぐらいから夕方まで試合をして、クタクタになって帰ってくるような生活をしていました。山梨の中なら結構できると思っていたのに、江南南だったり、新座片山だったりと、いざ違う県に行ってみると凄い選手がいて、Jクラブのジュニアにボロ負けしたこともありましたね。そういう時に『本当にまだまだなんだな』という気持ちを感じつつ、試合を重ねるにつれて、どんどん差がなくなっていくことで、自分たちが本当に凄く成長している実感がある時期でした」


――小学校6年生の時に全日本少年サッカー大会に出られたのが、ヴァンフォーレ甲府U-12にとっても初出場だったんですね。

 「僕らはまだU-12の2期生で、僕らの1つ上の学年からチームがスタートしたので、史上初というよりは、全国に行けたことが純粋に嬉しかったですね。ヴァンフォーレにジュニアができたということで、だいぶ注目もされていたと思います」


――大会自体はいかがでしたか?

 「グループステージや2次リーグはほとんど快勝していて、自分たちのサッカーも確立されていた中で、松岡大起選手(サガン鳥栖)のいたソレッソ熊本と対戦して負けたのが、悔しかったことを覚えていますね。チビリンピックでも負けていたので、『また負けたか』と。そういえば、チビリンピックで対戦した愛媛代表の帝人に、三原柊真選手(愛媛FC)もいたらしくて、僕は全然知らなかったんですけど、代表の時に『小学校の時に対戦してたんだよ』と言われて、当時を懐かしんだりしましたし、そういうのは楽しいですよね。『昔会ってたんだ』みたいな(笑)」


――松岡選手のことは覚えていますか?

 「覚えています。彼はたぶんフォワードをやっていて、ポジションは重なっていなかったんですけど、チビリンピックでも全少でも彼らに勝っていれば優勝もあったのかなと思っていたので、『ソレッソめ!』という気持ちはありましたね(笑)」


――高校2年生で松岡選手がJリーグに出場してきたのを見た時は、ビックリしました?

 「高校1年生の時にJユースカップで試合をして、その時に久々に再会した時は『ああ、ボランチをやってるんだ』ぐらいの感じで、そこまで凄さは感じませんでした。でも、高校2年生でJリーグに出て、イニエスタ選手と対峙しているのを見たり、フェルナンド・トーレス選手に絶賛されている記事を見たりして、『負けていられないな』とも思いましたし、『今の自分がイニエスタと対峙できるかと言われたら、できないな』という想いもあって、悔しいですけど、認めないといけない差があるのかなとは感じました。J1でずっとレギュラーを獲っていますし、年代別の代表で一緒にやった時にも『彼を中心にチームが動いているな』とも感じたので、僕もそういう選手になりたいと思っている中で、少し憧れみたいな部分もありますし、純粋に凄いなと」


――2001年生まれの世代は素晴らしい選手をたくさん輩出していますね。今の筆頭は久保建英選手だと思うんですけど、小学生当時で「この選手は凄い!」というのは誰だったんですか?

 「まず、山本理仁選手(東京ヴェルディ)は凄かったですね。あと、名古屋グランパスU-18から中央大学に行った田邉光平選手。この2人はポジションも同じボランチで、上手いと思っていました。あとは、横浜F・マリノスのアカデミーにいた岩井龍翔司選手(国士舘大)も、左利きで凄いなと。川崎フロンターレの山内日向汰選手(桐蔭横浜大)は試合をした時にボコボコにやられて、全然ボールが取れなかったです」

川﨑選手と同じくパリ五輪世代屈指の実力者として、期待を背負う山本選手。東京五輪に臨むU-24日本代表のトレーニングパートナーにも選出されている


――負けず嫌いの川﨑選手としては、「アイツらには負けられない!」と思っていたわけですよね?

 「間違いなく思っていましたね。『コイツだけには点を取らせたくない』とか、『コイツだけは目立たせてたまるか』という想いはありましたし、それが伝わっているのかどうかわからないですけど、理仁とやる時はバチバチ来てくれて、そういう全力でぶつかり合っている感じが楽しかったですね。あっちは意識していないかもしれないですけど、僕の熱が伝わって、そうなっていたのだったらいいなと」


――山本選手とは今年も対戦しましたが、やっぱり楽しかったですか?

 「楽しかったです。結構僕もガツガツ行きましたけどね(笑)。やっぱり同級生が頑張っている姿は刺激になりますし、スタメンに入っているかどうかも試合前に確認します。誰かが気になったら試合も見たりしますし、頑張っている同世代とぶつかり合うのは楽しいですね」

両親との話し合いを経て、単身で京都サンガF.C.U-18へ


――ヴァンフォーレ甲府U-15では10番を着けていましたし、周囲もそのままU-18に昇格するというイメージだったと思うのですが、京都サンガF.C.U-18に進まれますよね。この決断の経緯と理由を教えていただけますか?

 「ジュニアの時は年に何百試合も強い相手とひたすら対戦して、凄く成長した実感がありました。逆にジュニアユースになると、ジュニアの頃に比べたら、身体の疲労も考えないといけない時期でもありますし、そこまで試合数も多くなくて。当時戦っていた関東2部リーグもレベルが低かったわけではないですし、良い経験をさせてもらったのは間違いないのですが、これで理仁のような凄い選手たちに追い付けるのかと言われたら、やっぱりもっともっと高いレベルで自分を高めないといけないなと思ったんです。

 それで親に相談したところ、『颯太のやりたいようにやりなさい』と言ってくれました。ただ、1つだけ注文としては『サッカーだけじゃなくて、勉強もちゃんとやって欲しい』と。小学校と中学校も国立の学校に通っていましたし、勉強も頑張れる環境を、ということで親からいくつかの選択肢を提示されたんです。

 その中で東京の國學院久我山高校とか、静岡の藤枝東高校とか、勉強もできて、サッカーも高められるような環境が候補に挙がったんですけど、國學院久我山には寮がなくて、藤枝東は県立高校なので、静岡の中学校を卒業しなくてはいけないと。『それは厳しいな』ということで、その中からサンガの選択肢が出てきて、決めました。サッカーの高いレベルを目指していたので、Jリーグの下部組織がいい、高体連がいい、というのはなかったですね」


――単純に考えて、京都は甲府から遠いじゃないですか。サンガが浮上してきた決め手は何だったんですか?

 「サンガのU-15が時之栖でやっている試合を見に行って、実際に戦っている姿を見た時に、『ああ、レベルが高いな』と思いましたし、その時に僕の1個上の先輩たちも出ていて、『この中でスタメンを獲って、試合をしたらもっと成長できるんだろうな』と考えて、決意しました」


――サンガがスカラーアスリートプロジェクトで提携している立命館宇治高校も京都府内ではかなりの進学校だと思います。その情報ももちろん持っていたんですよね?

 「親は結構調べていましたけど、僕が練習会に行った時にサンガの方からいろいろと教えていただいて、より行きたくなりましたね。高校の施設の中も案内してくださって、『こんなに良い学校で、こんなに良い環境であれば行きたいな』と思いました」


――もともと勉強はお好きですか?

 「好きだと思います。他の人に比べたら全然(笑)。勉強でも負けたくないので。中学の時はテストの順位もちゃんと出る学校で、160人中何位みたいな。それも負けず嫌いというか、『良い順位獲ったろ!』という気持ちもあって、勉強も頑張れましたね」


――選手名鑑を拝見したら、川﨑選手の「サッカー選手じゃなかったら」というアンケート欄に、「高校の数学教師」と書かれていて、これもなかなか面白いなと思ったんですけど(笑)、そういう将来のプランもあったわけですか?

 「山梨にいた頃に親と話したのは、それこそ筑波大に行けば、勉強しながらサッカーももちろんできるし、そういう学校に行くのもいいんじゃないかと。岩政大樹さんも数学の教員免許を持っているというのを何かで見て、『そういうのも凄いな』と感じましたし、数学が好きだったこともあって、『数学の先生、いいなあ』と思っていましたね」


――川﨑選手は数学好きでも、あまり理屈っぽい感じはしないですね(笑)

 「そうですね。ちゃらんぽらんな方だと思います(笑)」

福岡慎平という目標を見据えていた高校時代


――実際に入ったサンガのU-18はいかがでしたか?

 「もちろんそんなに最初から良いプレーができたわけではないですし、岸本さん(岸本浩右監督)にたくさん指導を受けて、坂をダッシュしたこともありました(笑)。その中でも(福岡)慎平くんという大きな目標があったので、あの人には負けたくない想いが強かったですね。慎平くんも代表に入ったり、トップチームでスタメンになったりしていましたけど、僕は毎日のように削りに行ったり、本気で体をぶつけに行ったりして、そういう中で徐々にU-18のプレーのスピードであったり、リズムを覚えていったのではないかなと思います」

J2開幕を控える福岡選手の1日を追いかけた Jリーグ公式YouTubeチャンネルの動画


――福岡慎平を削ることで成長していったと(笑)。

 「そうですね(笑)。岸本さんは結構対人のメニューが多かったので、そういうところで慎平くんに負けたら完全に下だと認めることになりますし、そこで『絶対に負けちゃいけない』という気持ちがあったので、本当に何回バチバチやったかわからないです(笑)」


――勝率的にはいかがだったんですか?

 「どうだったかなあ。そこまで勝ってもいないですけど、そこまで敵わないとも思わなかったというか。『この人には勝たないといけない』と考えていましたし、『もう無理だ』という感じではなかったですね。実際に慎平くんとはプレミアリーグの試合にも一緒に出ましたが、やっぱり彼の『今は行くところ』『今は抑えるところ』というような、ゲームを読む能力は本当に凄くて、僕は90分間アグレッシブに行きたいタイプで、今でもそういうタイプだと思いますが、その中でいろいろと教えてもらいながらプレーした時間は貴重でしたね」


――寮生活はいかがでしたか?

 「思ったより楽しかったです。親元から離れて、寂しい気持ちもあるのかなと思いつつ、同級生と一緒に過ごしたり、テスト前にはみんなで一緒に勉強したりとか、映画のDVDを借りて見たりとか、楽しかったですね」


――とにかくサンガの子たちは仲が良い印象があるんですけど、あれは伝統ですか?

 「あまり上下関係も厳しくないですし、『楽しいことをみんなでやろう』という感じでした。サッカーで揉めても、寮まで引きずるようなことはなくて、そういうところは良かったですね」


――2個上は若原智哉選手、1個上は江川慶城選手と、U-15出身の選手がキャプテンをやっていた中で、外部から来ていた川﨑選手は3年生の時にキャプテンをされていて、それがあのチームでの立ち位置を象徴している気もするのですが、キャプテンに就任したことに関しては、当時どういうふうに感じていましたか?

 「(山田)楓喜もやりたがっていたんですよね。で、楓喜とそういう話になって、僕も10番を背負いたかったのに、ユニフォームのサイズの関係で、先に楓喜が10番を決めちゃったんですよ(笑)。それで『じゃあオレがキャプテンやるぞ』と言って、楓喜には渋々認めてもらって、キャプテンになったのだったと思います。監督から指名された記憶もありますけど、それよりも楓喜がやりたがっていて、『どっちがやるんやろ?』みたいになっていたのは、思い出として残っていますね」


――10番をもらっていたら、キャプテンを譲っていた可能性もありますか?

 「そうですね。あると思います。10番、欲しかったので(笑)」


――最終的にサンガでトップチームに昇格しましたが、昇格できたことに関しては、率直にどういう想いがありましたか?

 「京都のトップチームは、比較的U-18の選手を練習や練習試合に参加させてくれるんですけど、僕は本当に高校3年生まで一切練習参加できなくて、楓喜とか沼津に加入した(井上)航希は割と参加していたんですよ。ちょくちょく本田さん(本田将也・育成部長)とも話していて、『あの2人が上がるんじゃないの?』という感じもあって、正直僕は『プロに行けるのだろうか?』と。実際に大学の進路も考えていたので、昇格を伝えられた時はビックリした気持ちの方が強かったですね。『あ、行けるんだ』と」


――当時は自分のどういう部分が評価されたのだと思いましたか?

 「プレミアリーグでも、ボランチで結構点も取りましたし、攻守に渡って貢献できていたと自分では思っていたので、そういうところと、トップチームに入って、確かジュニーニョとレナン・モッタの2人がバチバチ系だったんですけど、そういう選手たちとひたすらバチバチやっていて(笑)、それが結構評価されたというのは聞きました。『遠慮せずに、行ってるぞ』と。自分の中ではそこまで行っている意識はありませんが、実際に試合が始まったら負けたくないですし、そういう中でガツガツ行く自分のプレーが認められたことは嬉しかったですね」


――ジュニーニョとレナン・モッタに感謝したいですね(笑)。

 「そうですね。プレッシャーも速くて、日本人選手とは全然違うなと。体も軽いので俊敏に、音も立てずに後ろから来るので、単純に怖いですよ(笑)」


――あとは、U-18日本代表の候補合宿でヴァンフォーレのアカデミー同期の井上樹選手と一緒になったじゃないですか。アレはどういう思い出ですか?

 「凄く嬉しかったですね。あの時はもう樹もトップには上がれなくて、明治大学に行くことが決まっていて、『プロで一緒にやれないのか』という寂しい想いはありましたが、同じチームで紅白戦にも出られましたし、自分も樹も成長していましたし、懐かしさもあって、楽しかった記憶があります」


――彼はライバルというようなイメージですか?

 「そうですね。ヴァンフォーレのU-15の時はライバルでした。練習でも『絶対コイツから点を取ってやろう』と。僕も樹も関東のナショトレには行きましたけど、その上に行くのはいつも樹でしたし、僕は日本代表とかエリートプログラムには選ばれなかったので、そこは悔しかったですね」


――そういうことも含めて、ここまで積み重ねてきた悔しさを、自分のエネルギーにしてきたようなところは強いですか?

 「そうですね。『試合で負けたくない』という想いだけではなくて、日頃から『チームメイトに負けたくない』という気持ちもありますし、本当に毎日毎日が勝負だと思ってプレーできていたので、そういうことが成長に繋がってきたのだと思います」

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Photo: ©KYOTO.P.S.

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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