サッカーとは――偶然を必然に変えていく作業。 その上で、偶然をどれだけ味方にできるか
リレーコラム:「サッカーとは何か」を考える。#1 らいかーると
6月1日、林舞輝著の『「サッカー」とは何か』、山口遼著の『最先端トレーニングの教科書』が同時発売した。2冊ともに、欧州で進んでいるアカデミックな理論体系(戦術的ピリオダイゼーションや構造化トレーニング)を読み解き、実践することをコンセプトにしている。こうした理論のバックボーンになっているのは「サッカーとは何か」という根源的な問いかけだ。そこでこの2冊を読んだ様々な論客にあらためてこのテーマについて聞いてみた。
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『「サッカー」とは何か』と『最先端トレーニングの教科書』は欧州の人がサッカーについて本気出して考えてみたことが日本人の視点で載っている本です。戦術的ピリオダイゼーションや構造化トレーニングについてこれらの本から学んでいくと、欧州の人たちのサッカーに対する考えの深さに驚かされること間違いないでしょう。欧州の人たちはどれだけ深く潜ってんねん!と私はいつも驚かされています。
『「サッカー」とは何か』のあとがきにはこのような文章があります。
すべての垣根を取り払ってオープンに、全員で「サッカーとは何か?」という難問に立ち向かっていこう、成長していこうという意識をヨーロッパでは強烈に感じた。
というわけで、僭越ながら「サッカーとは何か」について自分なりに考えてみます。結論をエターナルなものに寄せるとあまり自分らしくない気がするので、最近のサッカーの流れから、サッカーとは何かを深く探っていこうと思います。
足でボールを扱う「ミスのスポーツ」
さて、最近のサッカーを見ていると、「偶然」と「必然」という言葉を思い出させられます。
サッカーは偶然性の高いスポーツと言われています。W杯でも試合の開始早々に相手が退場してPKを与えられる、なんてことが起こりました。まさに予測不可能極まりない現象です。また、足でボールを使うため手でボールを使う他の球技よりもミスが起きやすく、それゆえに予測不可能なことが起きやすいスポーツと言われています。一つひとつのプレーの成功率が手でボールを扱う球技よりもどうしたって低くなりやすいですからね。
予測不可能な事象とは向き合えそうにもありませんが、足でボールを扱うことで発生するミスとは向き合っていけそうです。最初の一歩は、プレーの成功確率を上げることで、偶然を必然にかえていく作業になります。つまり、足でボールを扱うといえど、手でボールを扱うようにプレーの成功確率を高めていくことはできるはずです。例えば、技術ミス。ボールが止まらない、相手にボールを渡してしまう。シュートが枠に飛ばない。では、このミスを減らすためには技術のトレーニングをすればいいのか?となると、頭のトレーニングも同時に!というのが最近の流れです。
ミスが起きる中で身体操作以外に頭の中ではどのようなプロセスで行動していたのでしょうか。そもそもプレーの選択はあっていたのでしょうか。技術のミスなのか、判断のミスなのか。今のミスはどちらのミスだったのかを知ることがプレーに根拠を与え、成功確率を上げていくことに繋がります。
それでもミスがない試合なんてあり得ない、としても、ゲームに勝利する確率を上げるためには、ミスが起きにくい状況を作ることや、ミスをした後のダメージを減らすことが大切になります。パスを失敗しないように全員の立ち位置を調整したり、それでもボールが奪われるならボールを奪い返す人を準備してみたり、ボールを奪われるというミスが嫌なら相手にボールを預けてみたり。つまり、ミスの裏側にある因果関係を考察することにより、ミスを減らすと同時に、ミスが起きた時、そもそもミスそのものが起こりにくくする仕組みを同時進行で行うことで、ピッチにおける偶然性と戦ってきました。
では、次のピッチで起きていることはほとんど必然なんだ、予測可能な現象でピッチを埋めたいんだ、というチームを見ていきたいと思います。
グアルディオラが目指す「ミスのない世界」
偶然と必然のバランスに関して様々なアプローチがありますが、ここで紹介するのは世界に多大な影響を与えたバルセロナ時代のグアルディオラのサッカーとさせてください。バルセロナで一時代を築き上げたグアルディオラのサッカーは「ボール保持」を基本としていました。
最初に、ボールを保持することで、相手の攻撃機会損失を図ります。相手のゴールに迫るためにボールを保持するというよりは、試合を支配するためにボールを保持します。ボールを相手に持たれるから失点の可能性が出てきます。相手がボールを持たなければ事故で失点することもありません。だったら、自分たちでボールを保持し続けることで、相手がゴールに迫る回数を減らしてしまおうぜ、というチャレンジになります。
次に、ボールを動かしながら相手の配置を破壊します。目まぐるしくボールが循環していく中で、相手は対応を迫られます。さらに、右サイドのメッシが中央に移動したり、サイドバックのダニエウ・アウベスがウイングのように振る舞ったり、中盤のブスケッツが列を降りたりと移動をすれば、相手もその移動に対応しないといけません。移動への対応によって、ボールを奪ってからカウンターをするための準備、立ち位置がずらされてしまいます。
最後にボールを奪われたらすぐに奪い返します。自分たちのボール保持によって相手の立ち位置はずたずたにされています。よって、自分たちの整備された配置ですぐに相手からボールを奪い返すことが可能になっています。
グアルディオラのサッカーはボールを保持すること、ボールを奪われること、ボールを奪い返す局面を延々と続けていきます。つまり、相手にボールを与えないことで、もしかしたら起こるだろうミスによる失点をなくす、というアイディアになります。自分たちがボールを支配していれば、失点することはありません。
計算されたロングボール、計算された密集…
グアルディオラの影響で、ボールを保持するチームが増えていきました。一方で、ボール保持に対抗するために撤退守備にも磨きがかかってきました。となると、相手が整理されている状態で延々と攻撃を仕掛けてもなかなかうまくいきません。局面が変化しなくても、時間は刻一刻と変化していきます。残り時間の少なさは焦りを生み、焦りはミスを生みやすくなります。そして、ミスは相手にチャンスを与えますし、予測不可能な事情を引き起こす可能性があります。
偶然性を排除する宗派だとしても、ゲームに勝利することが最も重要な目的です。そのためには禁忌を冒し偶然の力を借りてでも勝ちにいきます。よって、相手の守備が整っている時よりも、整っていない時に攻めたい。計算された形でなくてもゴールがほしいのです。どのような形でもゴールはゴールですから。
となると、速攻やカウンター、ボールを奪われたらすぐに奪い返して逆カウンターという局面の増加を狙うチームが増えていきました。プレミアリーグの75分以降はオープンな乱打戦になることが多いです。だったら、最初から無秩序な状況を狙って相手のやりたいことをやらせない、ボール支配による守備なんて速攻とプレッシングの連打でやらせないよ、というのも立派な戦略となります。
でも、偶然にあふれたプレーばかりだったら、相手のミスを待つようなロングボールばかりになってしまったら、結局は偶然に期待した運任せじゃないかと。なので、徹底的に計算をします。どこにロングボールを蹴ったら競り勝てるか、セカンドボールを拾うための人員をどこに配置するか、裏に足の速い選手を走らせて、追いつかなくてもそのままプレッシングをスタートさせるためにはどうしたらいいのか。
計算された配置でなくても、サッカーはサッカーです。すべては1対1、2対2、3対3などの派生系といっても過言ではありません。もちろん、計算された配置より意思決定の負荷は大きいかもしれません。しかし、計算されてない配置からも瞬時に認知、判断を行うことができれば、それはすでに計算された配置と同じ状況になり得ます。整理されていない配置に相手は混乱しているというのに。つまり、今までは偶然性に依存しているとされてきた状況も、訓練によって、サッカーとは何かを突き詰めることによって、それを計算された状況に変えていくという算段になっています。
自分たちのターンを延々と続けるボールを保持するサッカーが、ピッチを必然にあふれたものとするならば、ボールが行ったり来たりするようなサッカーは計算されたものとすることは難しいかもしれません。しかし、無秩序に見えるピッチの中に、秩序を見出すことができれば、それは偶然ではなく、確かな因果関係を持ち、予測可能なプレーをピッチで繰り広げることができます。
その先にあるストリートサッカー回帰
さて、偶然の少ないピッチが世界中に広まったところで、世界中の指導者からはこのような提言がなされるようになりました。ストリートサッカーが必要だと。
必然にあふれたピッチは凪のように見えます。お互いのミスの少ないプレーに終止すれば、なかなかゴールに辿り着くこともありません。また、ゴール前での攻防も減り、再現性のあるプレーが何度も繰り返されます。
このような時代になってくると、大事になってくるのが質的優位になります。つまり、相手を、グループを破壊できるような個人能力です。しかし、多くの選手が適切な判断をできるように育成されているので、あっと驚くようなプレーをする選手は少なくなってきています。個人能力を身につけるためにはある程度のエゴが必要で、エゴはチームの勝利やプレー原則とは少し相性が悪いのが現実です。
よって、ゲームモデルから解放されたような状況でのプレー、つまり、ストリートサッカーが求められるようになってきました。ストリートサッカー育ちの選手は、自主的に工夫と模倣、無秩序な中での振る舞いを習得していきます。ストリートサッカーにはゲームモデルも存在せず、即興でのプレーが求められ、プレーに失敗しても怒るチームメイトはいても怒鳴る指導者はいません。ただただ、ゲームに勝利するために、お前はどうするんだ?ということが求められ続けます。無秩序なピッチで育ってきた選手が秩序にあふれたピッチで解決策になり得るという論理はなかなか興味深いところです。
決められた原則によるプレーをしていく中で、時にはその原則から外れたプレーが必要とされることがあります。その時にブレーキを踏むのか、躊躇なくアクセルを踏み込めるのか。そんな決断力とそれに見合った能力のある選手が必要とされてきています。そのような選手を育てるためにはどうしたら良いのか?と。育成年代から意思決定のコストを減らすような指導が本当に良いのか?と永遠に続く禅問答が欧州では再開しているのではないかと極東から眺めています。
ひとりごと
さて、サッカーとは何か。
これまでに見てきたように、偶然に起きていたことをできるだけ必然に変えてきた、という歴史があります。正確に言えば、ピッチで起こるすべてのプレーの因果関係を深く潜り言語化してきました。そしてできるだけピッチの上で再現可能なものに変換してきました。
これからもその流れは続いていくと思います。今は偶然だと思っていることもそのうちに必然に変わっていくかもしれません。ただし、予測不可能な偶然がなくならないように、このピッチで起きる現象をすべて必然に変えることは不可能でしょう。また、我われを最後に救ってくれるのは、予測不可能なプレーをしてくれる選手かもしれません。サッカーとはそんな不可能との戦いであり、偶然を必然にかえていく作業が延々と続いていきながらも、偶然をどれだけ味方にできるか、というものなんだと思います。
Photos: Getty Images, Bongarts/Getty Images
Profile
らいかーると
昭和生まれ平成育ちの浦和出身。サッカー戦術分析ブログ『サッカーの面白い戦術分析を心がけます』の主宰で、そのユニークな語り口から指導者にもかかわらず『footballista』や『フットボール批評』など様々な媒体で記事を寄稿するようになった人気ブロガー。書くことは非常に勉強になるので、「他の監督やコーチも参加してくれないかな」と心のどこかで願っている。好きなバンドは、マンチェスター出身のNew Order。 著書に『アナリシス・アイ サッカーの面白い戦術分析の方法、教えます』(小学館)。