サンフレッチェ広島一筋でプロ20年目、クラブのレジェンドである青山敏弘は、特別な思いで新シーズンに挑んでいる。チームの成長を喜びながら、尊敬する指揮官の下で、さらに自分自身を進化させる――キャンプからハードメニューをこなす36歳。そのプレーと人柄に魅せられた中野和也が背番号6の決意を描く。
青山敏弘が宮崎キャンプ最後のトレーニングマッチで、ゴールを決めた。しかも、見ている人にいわせれば、「これぞ青山」「まさに青山」というべき強烈なミドルシュートだったという。
この知らせを聞いた時、思わず拳を握り締めた。そして、悔しさも。このトレーニングマッチは相手側の都合で完全非公開、スコアすら出せないという厳しい縛りがあり、筆者も取材することが叶わなかったからだ。
それでも結果を受けて、改めて確信した。
今季の背番号6はやる。結果を出してくれる。
キャンプで感じていた手応えが、少しずつではあるが、具体的な希望となった。
ケガに悩まされた“ダイナモ”
そもそも、青山は本来。ミヒャエル・スキッベ監督のサッカーに最も適合するタレントであったはずだ。彼の痛々しいケガの遍歴さえなければ、の話だが。
ミハイロ・ペトロヴィッチ監督に「エンジン」と命名されたほどの運動量と強度の高さは、台頭してきた頃の彼のストロング。スキッベ流サッカーの得点源は2〜3列目からの飛び出しだが、2008年J2開幕戦におけるチームのファーストゴールは、青山の3列目からゴール前に侵入してきた動きで決まった。前へのベクトル、素早い切り替え、縦に速い攻撃の起点となる縦パス。あらゆる青山の特長が、スキッベ監督のサッカーとシンクロするはずだった。
だが、左膝前十字靱帯断裂というプロ2年目の大ケガを皮切りとして、彼は特に膝を集中的に負傷する。2度にわたる左膝半月板切除手術、そして2019年には右膝の軟骨を損傷、引退の危機にもさらされた。いつしか「どうしてボランチの青山がゴール前にいるんだ」という驚きのポジショニングはなくなり、エンジンのように自らの運動エネルギーでチームを牽引するという状況も変わってきた。ただ、「そこが見えているのか」と誰もが驚愕する視野の広さとロング・ショートのピンポイントパスは健在。研ぎ澄まされたボールコントロールとキックの凄みで、背番号6は自らの価値を見出していた。
スキッベ監督は、青山敏弘の存在を常にリスペクトしている。例えば、昨年7月10日の対湘南戦はチーム事情もあり、指揮官としては異例のターンオーバーを敢行したのだが、その事実を試合2日前に報道陣に対して告げた。「青山はプレーする。先発させる」と。
オープンな人柄のスキッベ監督だが、メンバー構成だけはギリギリまで口にしない。そのルーティンを破ってまで青山の起用を口にしたのは、その試合がJ1通算出場のクラブ史上最多記録(431試合)の節目となるからだ。
「彼はとてもいい状態にある。だったら、この記念すべき試合では先発でプレーしてほしいと考えた。そうすることによって他の選手たちのメンタルも向上するし、彼が牽引役となって勝利をつかみたい。クラブにとってもファミリーのみなさんにとっても、これは素晴らしいことだと思うからだ」
一方で、指揮官は現実を見る。スキッベ監督はボランチに攻守にわたってダイナミックな動きができる選手を求め、野津田岳人や川村拓夢、松本泰志といったタレントを起用した。彼らは90分で12〜13キロを走り抜き、スプリントも二桁の数字を記録できる。青山の経験やパスの質などは十分にリスペクトしつつ、起用への優先順位は下がっていった。昨年のリーグ戦出場が15試合、そのうち先発は4試合だけという実績が、現実である。
「とても、いいシーズン」の真意とは?
こういう状況に陥った時、選手たちは様々な反応を示す。
「まだやれる」と考えて出場機会を求めるために、移籍を希望するか。
自分の限界を見極め、スパイクを脱ぐことを考えるか。
だが、青山は違っていた。
例えば昨年11月5日、シーズン最終戦となった鳥栖との試合後、彼は「とても、いいシーズンだった」と笑顔を見せた。2006年、プロ3年目にレギュラーを確保して以降、ケガ以外でポジションを失ったことのない選手が、わずか先発4試合に終わったシーズンに対して「よかった」と言う。どういうことなのか。
そして12月8日、クラブは青山との契約更新を発表する。移籍も引退もなく、プロ20年目のシーズンを広島で迎えることになった。広島だけで20年ものプロキャリアを積んだ選手は空前絶後。クラブ史上、青山敏弘が初めてだ。
そうなると、「いいシーズンだった」の意味がますます気になる。ここはストレートに聞くしかないと考えた。……
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。