無名のアマチュアから夢のクロアチア代表へ。 セルティックの右SBユラノビッチの稀有なキャリア
日本でも大きな注目を集めたオールドファームで2ゴール1アシストの旗手怜央と同じく、高く評価された選手がいる。右SBのヨシップ・ユラノビッチだ。まったく無名のアマチュア選手がどのような紆余曲折を経て、クロアチア代表のレギュラー右SBまで登り詰めたのか。曲がりくねった道を踏み外すことなくトップレベルまでたどり着いた「苦労人」の稀有なキャリアを紹介する。
今冬にセルティックへと移籍したばかりの旗手怜央が、2ゴール1アシストというセンセーショナルな活躍を見せ、3-0でレンジャーズを打ち破った2月2日のオールドファーム。この伝統の一戦で、セルティックのサポーターを熱狂させた選手がもう1人いる。
昨夏に加入したクロアチア人右SBのヨシップ・ユラノビッチ、26歳。
「ライアン・ケントをズボンの後ろポケットにしまい込んだ」というセルティックサポーターの称賛ツイートがタイムラインに並んだように、リバプール育ちの左ウインガーを完璧に封じ込んだ。攻撃に転じれば、右サイドのマット・オライリーとリエル・アバダと巧みな連携を図りつつ、ハーフスペースに侵入してはフリーに。今のセルティックにおいてユラノビッチは「攻守のエンジン」というべきプレーヤーだ。
セルティックで3年間プレーした元オーストラリア代表FWのスコット・マクドナルドは、専門サイト『67 HAIL HAIL』でユラノビッチをレンジャーズ戦のマン・オブ・ザ・マッチに挙げ、その理由をこう述べている。
「称賛は旗手個人に向かうだろうが、ユラノビッチはピッチを上下しながらケントを抑え込んだだけでなく、しっかりとカバーリングをこなしていた。あらゆる局面に顔を出した彼のパフォーマンスはワールドクラスだったと思うよ」
真面目な子に訪れた思わぬチャンス=「NIKE CHANCE 2014」
昨年のEURO2020を機にクロアチア代表のレギュラーを勝ち取った2人のうち、ヨシュコ・グバルディオルが王道のキャリアを歩み始めた「恐るべき子」だとしたら、ユラノビッチはつづら折りのキャリアを歩み続けてきた「苦労人」だ。しかし、ユラノビッチには悲壮感が一切なく、インタビューでは表情を緩めながらポジティブな意見を平穏に語る。ケントとのスピード競争に打ち勝った直後の笑顔にもセルティックサポーターの心はくすぐられた。
昨年12月にスコティッシュリーグカップを制した際には、2ゴールの殊勲者・古橋亨梧を立てるべく、サポーターに向かってトロフィーを掲げるように催促。ユラノビッチはそんな心遣いもできるナイスガイだ。
首都ザグレブの中でも治安が悪いドゥブラバ地区で生まれ育ったユラノビッチは、自宅から徒歩5分のNKドゥブラバのサッカースクールに9歳で通い始めた。ザグレブ市内のサッカー少年ならば誰だろうと、名門ディナモ・ザグレブのアカデミーに誘われる機会を心待ちにしている。しかもドゥブラバはディナモの本拠地から5km圏内。ところが、少年時代のユラノビッチにディナモから声がかかることは一度もなかった。当時の彼を指導したダルコ・シャンテクはこう振り返る。
「ユラノビッチは一度のトレーニングも欠かさないような真面目な子でね。線は細かったけどスピードと運動量があり、プレーの原則も知っていたので、17歳になった時点でトップチームの試合でも頻繁に起用したんだ。当時の彼は“ドゥブラバのルカ・モドリッチ”だった。チームメイトを操るだけでなく、自らゴールも決める攻撃的MFとしてプレーしていただけにね」
とはいえ、当時のドゥブラバが戦う舞台は3部リーグ。世代別代表の経歴もなかっただけに、サッカー選手としての将来像が描きにくい状況だっただろう。そんな中、18歳で大きなチャンスが訪れる。アマチュア選手を対象にナイキが世界規模で才能発掘を試みたプロジェクト「NIKE CHANCE 2014」において、彼はザグレブ・セレクションに参加した46人の頂点に立ったのだ。当時のクロアチア代表監督ニコ・コバチは「勤勉にトレーニングした者こそ幸運を得られる。しかし、幸運だけ得た者には成功がない」とセレクションの参加者を激励。ブラジルW杯の新ユニフォームのお披露目も兼ねた受賞セレモニーでは、マリオ・マンジュキッチが社交辞令を含めながらもこんなスピーチをした。
「まだ僕が子どもだった頃、多くの偉大なクロアチアの選手がインスピレーションを与えてくれた。世界最高の舞台で祖国を代表できる日が僕にも訪れるのでは、と夢見ていたことを思い出すよ。今日、プレゼンターとしてここに立つことは特別な機会だし、セレクションに集まった彼らはこのカルト的なユニフォームを身にまとう次世代になり得る選手たちだと思っている」
マンジュキッチのトレードマークというべき背番号「17」の代表ユニフォームを本人から手渡され、「もし神様が許してくれるのならば一度だけでもクロアチア代表でプレーしたい」と語ったユラノビッチ。ロンドンで行われた各国選抜の「グローバルファイナル」ではあと一歩のところで脚切りされ、プロ養成所のナイキ・アカデミー(※2017年に閉鎖)への入団は叶わなかったものの、その年から彼のキャリアは新展開を見せる。
名門ハイデュクからの提示は月収10万円以下…
14-15シーズンの上半期、ドゥブラバの公式戦11試合で7得点8アシストを記録したユラノビッチに目をつけたのが、ディナモの宿敵であるハイデュク・スプリト。当時のハイデュクは財政状況が極めて厳しく、なりふり構わず新戦力を探していた。熱狂的な支持を受ける南部のダルマチア地方ではなく、ディナモのお膝元へと手を伸ばしたのは意外だったが、ハイデュクは2015年1月8日にザグレブ出身の3選手と契約を結ぶ(そのうちの1人がドゥブラバの同窓生かつ親友で、現在はラツィオでプレーするMFトマ・バシッチ)。ハイデュクは350万円ほどの育成保証金を払う余裕すらなく、その金額はユラノビッチの代理人が建て替えたという。さらに本人には10万円にも満たない奨学金相当の月収しか提示されなかった。それでも19歳のユラノビッチは「これは僕にとって一生に一度のチャンスだ」と決意を新たにし、新天地での挑戦を受け入れた。
デビュー戦ではボランチ起用されたように、1年目は中盤の便利屋扱いだったユラノビッチ。2年目の15-16シーズンからは、空き番となった「17」を背負うことにした(1年目は「77」)。言うまでもなく、マンジュキッチから贈られた代表ユニフォームに由来するラッキーナンバーだ。そして、このシーズンにハイデュク監督となったダミール・ブリッチとの出会いがキャリア最大の転機になる。
「右SBならば君は偉大なキャリアを作れると思う」――ドイツ帰りの新指揮官から早々に提案されたのは新たなポジションへのコンバートだった。……
Profile
長束 恭行
1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。